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悪意無き邪悪さ [嘘と社会規範]

 反応を待っている方(いるかな?)用にも、単なる読者用にもなるような記事って、なるべく包括した話で、かつ新たな知識が得られるものであるべきだよなぁ、とよく考えるのだけど(個対個の対応をするには、ストックが増えすぎて大変、という個人的理由もあるが)、『バカの考え休むに似たり』とあるように、なかなか目的に合致するような事が書けない。
 そんな時は(しょちゅうな気もするが)、他力本願。プロの著作者の力を借りよう。

【銃のプレゼント】

 精神科医であるM・スコット・ペック氏が書いた、『平気でうそをつく人達(訳者 森英明 発行 草思社)』にはこんな事例が出てくる。
 要約すればこんな感じ。
 患者である少年との話で、クリスマスの親からのプレゼントが「銃」であった事、しかもそれはその年に自殺した兄が自殺に使ったものである事を聞く。

 唖然とした著者が、その親との面談で「銃のプレゼント」の事を聞く。

 「息子さんが欲しがってたんですか」と聞くと、
 (兄の自殺など)色々あって何を欲しがっていたか覚えてない、と答える。

 「でもなんで銃なんかを?」と聞くと、
 あの年頃の男の子は大抵銃を欲しがるもんだ、と答える。

 「もう1人の息子さんが自殺に使った銃をあなたは嫌いにならなかったんですか」と聞くと
 銃の撲滅運動の人かといぶかりつつ、銃が問題ではなく、使う人間が問題だと主張する。

 「確かに銃が問題ではなく、使う人間の問題です。何で兄の自殺で塞ぎ込んでいる危険な状態な人に、しかもよりにもよってその自殺に使われた銃をあげたんですか」と聞くと
 塞ぎ込んでいるのがそんなに深刻だとは思わなかった、それに家には新しい銃を買ってやる金なんてない、と答える。

 「その行為は『兄と同じようにこれで自殺しろ』って言うようなもんじゃないですか」と言うと
 そんな事ひとことも言っていない、と言い返す。

 「当たり前です。でも、そう思われる事を考えもしなかったんですか」と聞くと、
 そうは考えなかった。私はあんたみたいな教育を受けた人間じゃない、と答える。

 最後に「そうかもしれないんですが、それが問題なんですよ。つまり、そういう事も考える必要があるということです」と言い諭す。


 すごいたまげる話ですね。
 兄が拳銃自殺した後に、その拳銃をプレゼントされたら誰だって「死んでね」と言われていると思うでしょう。よほど鈍感な人でも「身内が自殺に使った銃」をもらって気分がいいわけありません。
 
 でもおそらくこの親は、全く「悪意」は無かったんだろうな、と思います。自ら言うように「男は銃が好き。でも買う金はないから、既にある銃でいいだろう」という気持ちでそれを実行したって事なのでしょう。
 その上で、そもそも「悪意」は無いし、(自分にとって)正当な理由もあるし、その行為の問題が分からなかったのは事実なのだから、“自分には何の問題も無い”と考えているわけです。


【自己正当化という“態度”の深刻な問題】

 では、この親の問題点は何でしょう?

 もしもあなたが「うっかり」この親のような過ちをしたとしましょう。
 で、誰かから「兄が自殺に使った銃を、弟にやるなんて!子供の気持ちを考えなさい!」と言われたらきっと、『ああ、そこまで考えていなかった!!なんて事をしでかしたんだろう!!』と過ちに気付く事でしょう。

 過ちの原因は「自分の頭の中に入れておくべき事実(例えば、兄の自殺に対する弟の感情)」が足りないまま、頭の中の事実だけで物事の判断をした事です。
 しかし、後で他者から(気付かなかった)「他の事実」を知る、あるいは自分で見落としていた事実に気付いたときに、もう一度、“その事実を加えた上でどう判断すべきだったか”をいちから考え直し、それが過去の判断と違った場合に「それが間違っていた」と分かるわけです。
 その上で、「そういう事も考える必要がある」という事が心に刻み込まれるでしょう。

 しかし、この親においては人から言われても、「自分の頭の中にあった事実」の上では選択した判断としては“何ら不適切なものではない”という態度を取り続けます。
 もの凄く要約すれば「自分にはそうする理由があったのだから、悪いわけではない(責任は無い)」という感じ。で、責任が無いと思うから、改める必要性も感じない。

 間違いを生んだのは、判断に用いるべき「事実」に不足していた点にあるのですが、こんな人のように、それを自分の問題にしない限りは、永遠に同じ過ちを繰り返し、そして永遠に同じ理由で責任を回避しようとするのでしょう。


【困った人達】

 某A氏も同じような人なんだろうなという感じ。
 やりとりをしても「自分の頭の中の事実」を増やすわけでもなく、元からあった「自分の頭の中の事実」だけで、「こういう事実があるからこう考えてもおかしくないはずだ」と同じ事を繰り返すばかり。
 
 埒が明かないとはこういう事だ。

 でもね。
 某女帝や、他の『「嘘はいけない」は社会規範』派とのやりとりでも、実は同じ匂いを嗅ぎ取っているんだ。
 私に対し「あなたの言っている事は事実の一つかもしれない」とは言うけれど、「だとすれば、私の知っている事実とその事実を合わせればこんな新たな考えが生まれる」ではなく、「しかし、私の知っている事実に基づけば....」って『同じ結論を繰り返す』話ばかりな気がしてならない。

 あ、「全ての人がそうであるわけでは無いけれど」という逃げは打っておくべきかな。


【悪意がなければ善良であると言えるか】

 ついでに、すこし角度をずらした話。

 この親別にワザと酷い事をしようとしてるのではなく、単に「考えが足りない」だけで、当人としてはむしろいい事をしようとしてあげているつもりだったでしょう。でも、その結果が「いい事」であるとは限りません。
 この手の人がやっかいなのは、結果ではなく、「自分が“いい事”と思ってやった」という経過だけで物事を評価しようとする所です。

 「私は善良だ」、「私は誠実だ」
 こういう事を言う人を私は信用しません。
 ひとつは、本人の思う善良さや誠実さは、結果の善さや正しさを保証するわけではないから。
 もうひとつは、本当に「誠実」でありたい人は、常に「自分は本当に誠実か」不安で疑い続けているはずであり、軽々しくそんな事を口にはしないはずなんです。
 むしろ「善良だ」と口に出す人は「邪悪さ」を言葉で誤魔化そうとしている人か、「善良だ」と思っていればそれだけで善良であると思って止まない弛緩しまくった人のどちらかでしょう。

 問題の親は、おそらく後者のタイプですね。
 EM団子を川に投げ込んで満足している人も。


【おわりに】

『平気でうそをつく人達』から2つほど引用。
 精神医学は、私が邪悪性と呼ぶものを包含する、これまでとは違った新しいタイプの人格障害を認識すべきときが来ていると私は考えている。自己責任の放棄はあらゆる人格障害の特徴となっているものであるが、これに加えて、邪悪性はとくに次のような特性によって識別できる。
(A) 定常的な破壊的、責任転嫁的行動。ただしこれは、多くの場合、きわめて隠微なかたちをとる。
(B) 通常は表面に現れないが、批判その他のかたちで加えられる自己愛の損傷にたいして過剰な拒否反応を示す。
(C) 立派な体面や自己像に強い関心を抱く。これはライフスタイルの安定に貢献しているものであるが、一方ではこれが、憎しみの感情あるいは執念深い報復的動機を隠す見せかけにも貢献している。
(D) 知的な偏屈性。これには、ストレスを受けたときの軽度の精神分裂症的思考の混乱が伴う。

 例の話題に対する某女帝の態度の解説に使えそうな気がするなぁ。
 (あの方にケンカ売る度胸が有る人は使ってもいいよ)
 とはいえ、もう一つ紹介する引用にあるような感じで、「某女王様だってそうだ」なんて言われないように、気をつけなくては。

 ちなみに、「おまえこそどうなんだ」論法って、冷静に考えるとなんかおかしいよね。
 お互い間違っている事は十分有りうる。『岡目八目』の言葉もあるように、他人の事は見えても自分の事は見えない事が往々にしてあるからね。
 で、「客観的な間違い」という視点で見れば、指摘した人が同じ間違いをしていても、それは自分に間違いがある事の否定にはならんわけで。
 むしろ「おまえこそどうなんだ」という気持ちをぐっと押さえて、貴重な意見を受け取って指摘された自分の間違いを直す一方で、「相手も間違っている事」を“教えない”方が優位に立てる気がする(←策士)
 『道徳的判断に伴う危険性』
 すでに述べたとおり、邪悪な人間の特性として、他人を道徳的に邪悪であると批判することがあげられる。自身の不完全性を認識できないこうした人間は、他人を非難することによって自分の欠陥の言い逃れをせざるをえない。また、必要とあれば正義の名において他人を破滅させることすらこうした人間はする。(中略)われわれが他人を悪と決めつけるときには、われわれ自身が別の悪を犯しているかもしれない、ということを十分意識する必要がある。「裁くなかれ、なんじ自身が裁かれざらんがために」というキリストの言葉は、無神論者や不可知論者ですら知っているものである。

 含蓄があるなぁ。
 某女帝さんに聞かせたいもんだ。

 なお、私は『道徳的に邪悪であると批判する』事なんてしませんよ。
 しないのは邪悪でないからではなく、自分が邪悪な人間である事を自覚しているからだけどね。


 この本の第5章「集団の悪について」も、なかなか考えさせるものだけど(誰も悪くないように見えるのに、集団として最悪の事をしてしまうような話)、ネタ的には以前紹介した岡本浩一さんの本の内容ともかぶる感じなので割愛する。


 その代わりといってはなんだけど、別の本の話も引用しておく。
 今回のメインの話とはあまり関係ないけども、ずっと紹介したかったのに、なかなか機会がなかったので。
 女帝さんに対する気持ちを太宰治さんの小説の登場人物に代弁してもらおう(孫引きだけど)
 太宰治の『人間失格』に、悪友が主人公に向かって、「これ以上は、世間が許さないからな」としたり顔にたしなめるのに対して、主人公が「世間じゃない。あなたでしょう」と心のなかでつぶやく場面が出てくる。「そうして、世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから、自分は、今までよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました」とある。
(『「弱者」とはだれか』小浜逸郎著より引用)

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トンデモブラウ

自分を客観的に見るという技能は、かなり高等なものなので、それを持ち合わせているというだけで尊敬に値します。
というか、そういう人は、高徳な人として自然と尊敬されるんじゃあるまいか。
私もそうなることを心の片隅で目指しているわけですが、生来の小物キャラなので自分目線からなかなか脱却できないジレンマ。
自分を相対の基準としてしか他者を捉えるられないし、それすら煩悩にあっさり逆転される始末。
まぁ邪悪にもなりきれないので、小物なりに(だから)あがいてしまうんですけどね。
他者にイラっとさせられた時点で、「あぁイカんなぁ、気をつけねば・・・」と安直に反省はしますけど、常に意識しているかというとそうでもない。
さっきナマスを吹いたのに、もう羹の熱さを忘れちゃうぐらい。

自分の邪悪さに薄々気づいているからこそ、清廉潔白に憧れるんでしょうな。
子供じみた青臭い潔白さのようで、恥ずかしくて公言してませんが、忸怩たるものはあるんですよ。

いろいろあって、あるブランドにはちょっと幻滅しました。
勝手に妄想で持ち上げて、勝手に失望すんな、っつう話なんですけど。
by トンデモブラウ (2009-06-29 11:48) 

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