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「大義名分」批判 [疑似科学批判批判批判批判]

 え~、今回はPseuDoctorさんの私に対する1つの問いに答えたいと思います。
 その問いに対する答えは、結構私の行動原理・理念に肉薄するものだったりして、PseuDoctorさんのみならず、ここに来てくださった方々の私に対して抱いている疑問や疑念に対するなんらかの説明にもなるような気が...。


 で、肝心の問いとは「思わぬ刺客」のコメント欄のコレ。

『ところで、Judgementさんはどうして「大義名分を振りかざす人」を批判してるの?』

 ...どういう意図で発せられた問いかは分からないし、いつの誰に対する批判を元に言っているのかわからないケド、確かにそういう人を私は批判したいわけだし、冒頭で言った事もあるのでお答えしておきます。
 PseuDoctorさんに対する私信と言うよりかは、読者みんなに対する発信という感じで。

 ところでで、最近PseuDoctorさんをけなしっぱなしな感があるけど、今回は特別に、特定の個人に対する揶揄・けなし・おちょくり・罵倒一切無しで(不評だった「あはん、うふん」も無しで)回答してあげます。

 その代わり、PseuDoctorさん。
 このような問いを発する以上は 『「大義名分を振りかざす人」に対する批判』 について、何かお考えがある、って事よね。
 それについて、どう説明するか考えながら読んでくださいね。

 あと、かなり長くなりそうなので、心して。


【『大義名分』の意味】

 まず、『大義名分』の言葉の意味を定めるところから始めましょう。
 調べてみると「人として、また、臣として国家や君主に対して守るべき道理・本分や節義。」だってさ。
まぁ、民主主義の時代に臣だ、国家だ、君主だって話をしても仕方ないので「人として守るべき道理・本分や節義」におさめておこう。もう一つ「ある行為のよりどころとなる正当な理由や道理。」と言うのもあるみたい。

 では、それぞれの意味に分けて...というのもめんどくさいし、どちらか一方に絞って...として「いや、聞きたいのはそっちじゃない」って言われるのもつまらないので、両者を合わせて1つに要約した意味を持たせましょう。

「『大義名分』とは“当然皆が受け入れるべきもの”とされるもの」
 でどうだろう?“当然皆が正当だと判断しなくてはならないもの”でもいいけど、ほとんど同じかと。
 細かな部分で異論が出るかもしれないケド、大要としてはこれでいい、という事で話を進めまする。


【『大義名分』は実在するか】

 『大義名分』はあるのか?
 少なくとも現在は無いし、遠い将来においても見つけられないもの。
 「全人間が従わなければならない行動規範」なんて人間には決められないし、決めていいとも思わない。
 構成員は常に変化し、時は常に流れ、新たな歴史が次々生まれてるんだからね。
 『大義名分』は『真理』と同じで、人間は近づく事はできても、手に入れる事はできない。そんな感じ。

 ところが、現実には『大義名分』があるかのように振舞う人がいる。
 それは、掲げる個人あるいは集団の自分勝手な“幻想”じゃないかな。

 きっと『大義名分』には、レプリカでも色褪せないメリットがあるんだろう。
 では、そのメリットとは...

 ...と結論を急がず、色々考えてみよう。


【ケーススタディ】

 ここで2人のタイプの違う人に登場してもらい、「『人殺しはいけない』は正しいか」について検討する姿を描いてみる。念のため言えば、そんなテーマの結論を出そう、というわけではないのでお間違いなく。両名の思考プロセスにご注目くだされ。

《X君の場合》

『人殺しはいけない』
X君は、これを「正しい」と直感的に思った。
でも、改めて言われたときにこう考えた
「当然のようだけど、ひょっとして違うってことは無いんだろうか」

X君は試しに“これが否定できないか”色々考えてみた。
しかし、自分の能力ではこの命題を否定する事はできなかった。
だから、X君は「自分は『人殺しはいけない』は正しいと思う」と言った。

でも、そう言いながらX君は考える。
実際は、「正しい」事を発見したのではなく、単に「否定されなかった」だけだ。
もっと考えれば命題を否定できるかもしれない。
だからこの結論は、現時点での暫定的なものにすぎない。
もう少し疑ってみよう。もしかしたら否定できるかもしれない。

そんなX君にとって現時点で言えるのは
「これを皆が受け入れても今のところ支障は無さそうだ」程度だ。
何せ、否定される可能性は残っているのだ。慎重にならなくては。
「正当性」?自分は正しい事を確かめたわけじゃない。
だから、大義名分とは言えない。正確に言えば分からない。


《Y君の場合》

そんなX君を見て「めんどくさい奴だ」と思っているY君がいる。

『人殺しはいけない』
Y君も、これを正しいと直感的に思った。
改めて言われても、「そんなのとっくに知っているよ」という感じ。

Y君は思う「”これを肯定する話”は、そこらかしこにあるじゃないか。」
その状況を見れば考えるまでもないだろ。
その“これを肯定する話”を思い付くまま並べ立て
Y君は「『人殺しはいけない』は当然だ」と言った。

そう言いながらY君は考える。
こんな自分で疑う余地のないような事、当然一般的で、普通で、常識だろう。
むしろ、これに疑いの目を向けるような奴こそ特異で、異常で、非常識だ。

そういう考えに至ったY君にとって
『人殺しはいけない』は大義名分となる。


【X君はめんどくさいのか?】

 読んでどう思っただろう?
 Y君のように、X君の事をめんどくさい奴だと思っただろうか?
 めんどくさい奴、とまでは言わないまでも、そんな悠長なやり方じゃ、いつまでも答えは出ないで足踏みしたままだよ...とイライラしたかもしれない。


 しかし、気付いた方も多いだろうけど、X君のようなやり方は「科学」そのものだ。
 そして「科学」はそうやって慎重に確実に進歩してきた。足踏みなんかではない。

 別に、X君は疑念が残るから、結論を先延ばしにしているわけではない。
 できるだけの疑念を潰した上で、結論を出している。
 それは暫定的な結論であるけれど、現段階で最も自分にとって妥当な結論だ。

 この「現段階」という意識を持って、否定の試みを続け、否定されないうちは、暫定的な結論を正しいものとして視野を広げていく。それが、一番「誤りにくい進み方」じゃないかな。
 何より「実は間違い」であった場合、いつかは気付くし、その時に修正できるから。

 X君のように疑いはしたものの、続けているうちに疲れたり飽きたりして、「もういいや」と以降の検討をやめる人の場合は、Y君と同じ。
 X君の、あるいは科学の方法の価値は、「疑う事」ではなく「疑い続ける事」にあるから。


【大義名分不要論】

『でも、より危急な状況に対応する場合、そんな悠長な事をしていれば対応が間に合わないよ。』
 と考える人もいるかもしれない。
 でも、どんなに危急であっても、それは一足飛びに「大義名分」にしてしまう理由にはならない。

 別に、自分がその時点で考えられる範囲での適切な対応を実行すればいいんじゃない?
 で、それをやりながら、疑い続ければいい。
 そうすれば、万一自分がやって来た事が不適切であっても、いつか気付くし、その時に修正できる。
 修正を見越していれば、ある程度試み的な事も可能だ。

 こう考えると、「とりあえず早急に対応する必要がある」場合こそ、X君的なスタンスが必要じゃない?
 「大義名分」を打ち立てる必然性はどこにも無い。


 科学だって今できる事と、今はできない事がある。
 この現象に早く対応しないといけないから融通効かせろ、と言われてもできないものはできない。
 できるのは、できるように頑張り、できるように色々試す事ぐらいだ。
 そこを「じゃぁ、できた事にしちゃおう」ってすると、それが「ニセ科学」だ。

 その点で、「大義名分」に飛んでしまう心理と、「ニセ科学」が出来てしまう心理は似ている。


【大義名分のメリット?】

 大義名分のメリットって何だろう。

 「分かりやすい」というのはあるかな?
 多くの人が「そうだな」と共感できるような事を旗印にすれば、多くの賛同者が出てくる(下品な言い方をすれば「食いつきがいい」という奴だ)。賛同者が多くなればなるほど、影響力は大きくなる。そうすれば、自分達の目的を達成する大きな足ががりになる。

 しかし「分かりやすい」という事は「深く考えなくても済む」という事だよね。
 例えばY君の例のように「大義名分だ」と判断するには“めんどくさい”考察は必要無い。
 また、そんな「大義名分」に集まる人も、きっと『それが「大義名分」だと言っている人がいる』という事実だけで満足しているだろうね。

 「大義名分」は、その旗の元にいる人間を非常に楽にする。
 「大義名分」を振りかざす、と言う事は「大義名分」が正しい事が絶対的な前提になっている、という事。
 というか、いくら深刻そうな顔をして、必死で考えている素振りを見せても、結局「大義名分」である事に甘え、最も肝心で最も困難な「本当にそうなのか」の検討をしないのだから、手を抜いているとしか言えない。
 そういうめんどくさい事が厭、あるいはできない人だから、「大義名分」を持ち出すとも言える。

 この“楽さ”がメリットと言えばメリットだ。
 誰にとってのメリット?

 当然、掲げる人と、そこに集まる人達。

 その点で、「大義名分」に頼る心理と、「宗教」にすがる心理は似ている。

 ...というと、「宗教」は楽じゃない、と言う方もいるかもしれない。
 だけど、示されたゴールまでがイバラの道であるよりも、どこにあるかすら分からないゴールを探し続ける方が苦行だと私は思う(何も考えないのが一番楽だろうけど)


【大義名分は分かりやすいのか】

 でも、大義名分は本当に「分かりやすい」のだろうか。

 それになんとなく共感出来て、あまり深く考えたく無い人には「わかりやすい」だろうケド、そこでひっかかる人にとってはどうだろう。

 例えば「○○の場合人を殺してもいいんじゃないの」と疑問に思ったZ君がいる。

 Z君がY君にそれを聞いても、Y君は『人殺しはいけないと言える事例』しか知ろうとしていないから、「殺してよさそうな事例」の事を考えた事はない。だから答えられない。
 Y君はモヤモヤしたイラつきを感じながらこう言い放つ
 「『人殺しはいけない』と考えるのが人として当然だろ!!」

 ...これが「大義名分を振りかざす」だ。

 Y君は自分が知っている限りの『人殺しはいけないと言える事例』を列挙する。
 しかし、そこには「○○の場合人を殺してもいい」を直接否定する根拠は無い。
 そんなすれ違いが続いた挙げく、Y君は業をにやしてこう言うかもしれない
 『とにかく人を殺していいわけないだろ。それともZ君は「人殺し」を推奨するつもりか!!』

 「大義名分を振りかざす」人は、自分でよく考えてないから説明が出来ない。
 (よく考えてなくて説明出来ないから、大義名分を振りかざしている。でも良い)
 説明が出来ないから、(なぜか)説明責任を相手に押し付けようとする(問い返し)。
 でもよく考えてないから、「問い」がとんでもなく飛躍しがち。
 これでは無用の軋轢を生むばかり。

 つまり、大義名分は「最初から分っているつもりの人」のためのもので、それをいくら振り回しても「疑問に思っている人」に分からせる力は無い、という事だ。


 一方、X君のようなタイプは、このような問いにきちんと答えられる。
 何故なら、その問いは既に自分で何度も疑問に思い、その度に自分を納得させる「そうとは言えない」答えを見つけている場合が多いから。
 だから、X君はZ君に自分が既にやった、「○○の場合人を殺してもいい」の否定についての思考の道筋を教えればいい。Z君も「ああ、あれは“殺してもいい”ケースかな、って思っていたけど、確かにそうとは言えないよね」と納得できる。
 自分で疑っていればこそ、他人の疑問のポイントも分かるんだよね。


【大義名分醜悪論】

 私は『大義名分』とは、「思考停止のための名分」と考える。

 『大義名分』が無くても出来る事のはずなのに、あえて『大義名分』を使おうとするのは、『大義名分』にすれば、以降は疑わないで済む(楽で済む)からじゃないのかな。

 モチロン、私は宗教家ではないので「楽するのが罪悪」とは言わない。楽であるに越した事はないし、むしろ積極的に楽を享受してもいいと思う。

 ただ、『大義名分』を掲げる時、というのはほぼ確実に「敵対する者、『大義名分』に従わない者への攻撃」がセットになっている。その攻撃が問題。

 思考停止しているから自分の意見は変わらないし、変えられない。
 一方で説得力が無いから相手の意見も変えられない
 そうなると次のような不毛なやりとりの繰り返しをするしかない。

 「大義名分はこっちにあるんだ、文句があるなら言ってみろ」
 →批判される 
 「大義名分はこっちにあるんだ、そんな文句は筋違いだ」

 「大義名分はこっちにあるんだ、よく考えろ」
 →意見を言われる
 「大義名分はこっちにあるんだ、もっと考えろ」

 これを、相手がくたびれて「無条件降伏」するまで続ける。
 そう...決着は「無条件降伏」しかない。
 「反抗」はモチロン、「不承不承受け入れる」ような態度でも攻撃の手を緩めない。

 何故なら、自分はそれ以上考えられないから、「そっくりそのまま正しいと受け入れる」以外の状況にどう対処すべきかわからない。
 そもそも「大義名分」が“当然受け入れるべきもの”だとすれば、「譲歩」は有り得ない。譲歩できる程度のものなら、「大義名分」と言えなくなるかもしれない。
 ...そんなめんどくさい事を考えたくないから、「無条件降伏」しか受け入れられないのだ。

 そして、「無条件降伏」するか、口を封じる(抹殺)までは、先に言った「不毛なイチャモン」の大量投下を続ける(単なる“物量作戦”だ)。
 まさに、そんな風景を何箇所かで見たような気もするけど、デジャヴだろうか...。

 自分の「思考停止」により生じる問題の責任を、全て他人になすりつける。
 『「大義名分」を振りかざす』、というのはそういう事。

 こういう人が好ましいと思う?
 むしろ醜悪よね。

 多分皆さんも、ひとごととして見れば、眉を潜めると思う。
 あるいは、これを読んで「○○みたいだな」と特定のニセ科学信者を思い浮かべるかもしれない。
 でも、そんな人も、実は「大義名分」を振り回して同じ事をしている、という事がままあるかも。
 だけど、それについては「思考停止」しているから、「自分達は違う」と根拠無く思いがち。

 そんな不公平さを意識できないのも、「大義名分」による「思考停止」という麻薬の怖さ。
 

【大義名分害悪論】

 もう一つ。『大義名分』を使う事の危険性がある。

 以前言ったけど私は「だます側」の人間だ。そんな私は、「悪徳商法」やら「ニセ科学」やらでどうやれば稼げるかなぁ、と考えたりもする(不謹慎?)。
 例えばですよ、いきなり商品の効能を進めるより、まずそれらしい『大義名分』を掲げてそれに参加させ、思考停止した頃に、甘い言葉で都合の良い事を刷り込み、それを盲信させてじっくり搾り取る、ってやれば上手くいきそうだよね。

 ってか、ピンときた人もいるだろうケド、「できそう」と言うより、既に「悪徳商法」や「ニセ科学」やらの吹聴に活用されているんだよね。どちらかといえば古典的。
 人々を思うがままに扇動するには『大義名分』がうってつけの道具なんですね。

 そう考えると『大義名分』を受け入れる事を前提とする行為は、「ニセ科学」の蔓延に都合の良い土壌をせっせと耕しているようなものじゃないかな。

 だから、「ニセ科学批判」の人が『大義名分』を掲げると(すれば)、非常に矛盾に感じる


【まとめ】

 私がどうして「大義名分を振りかざす人」を批判したいのか、分かった?

 「批判すべき事」は多々あってしょうがないし、少なくとも「批判しない方がいい」と言う理由が私には見つからない。だから批判する、そういう感じ。

 善意で『大義名分』を掲げる人が目指すのは
 「何も思い悩む必要が無い(思考停止してても安心な)平和な世界」 なのかもしれない。

 確かにそれは理想郷のひとつだろうケド、私はそんな「考えない」世界には住みたくない。
 個人的なポリシーだけど、それだけでも「批判したくなる」理由にはなるんじゃない?


 私は頭悪いケド、「考える」のは大好き。
 お金も体も使わない娯楽。
 「集めて保管する」のは苦手だけど(記憶力に自信無し)、「自分で作る」のは好き。
(「集めたもの」を得意げに見せびらかすだけで、自分では何も作らない人は嫌い)

 で、自分で作ったものは人に見て欲しくなるから、自分のブログに書いている。
 よく考えると、多分それが私の言動の動機の100%なのかもね。


 そういえば、最近誰かさんに言われて、自称もしてはいるけど、本当に私は「めんどくさい」のかな?
 でも、私程度の考えですらめんどくさいなら、「科学」はもっとめんどくさいよね。

 「正統科学」はめんどくさいので、分かりやい「ニセ科学」の方が科学に見えるからひっかかる、なんて話があったような気がするから、私如きを「めんどくさい」と思うようなら、「ニセ科学に騙される側」と同じじゃん。
 



【おまけ】

 PseuDoctorさんの「何がニセ科学かの共通認識」ってあたりを馬鹿にしてみせたのも、実は今回の話と筋は同じ。

 『何が「ニセ科学」か』という“共通認識”を作る、って行為も「大義名分」を作ろうとするのと同じじゃないかな。とりあえずそれを決めてしまえば、当事者も後から来た人も「何でそれがニセ科学か」を疑う必要は無くなって、“共通認識”で定めた「ニセ科学」の、「二セ科学」たる仮説に沿った“悪い部分”を探して列挙すればいいだけ。
 また、そのレッテルを貼って示すことで、「ニセ科学批判」支持の被害者予備軍は、そのレッテルが貼られているかさえ判断すればいい。

 “共通認識”を作ろうとする試みは、作る過程では疑いもするんだろうけど(ただし、疑うのは自分の認識ではなく、相手の認識だろうね)、結局「思考停止の欲求」に従っているだけじゃないかな、と思う。

 で、それは、私が言った
 「ニセ科学の認定は私の主観で判断でいいんじゃないの」
 とちゃんと関連しているんだ(伝わりにくかったとはおもうけど)。

 「それがニセ科学である理由(ニセ科学ではなくはない理由)」
 については、自分で説明できる範囲にしとこうよ、って事。
 誰が言った、誰が決めた、ではなくてさ。
 自分の主観なんだから、自分が一番良く説明できるでしょ。

 「これがニセ科学なのは我々の“共通認識”だからだ」
 と言ったところで、何の説明の足しにもならないわけだし。

 「これこれ、こんな理由で科学と錯覚する危険があると“私は”思う」
 でいいじゃないの。

 で、その時
 「いや、私の判断ではそれはニセ科学ではない」
 と言わなきゃならない必要がどこにあるんだろう。
 
 自分とは違う捉え方だと言うのなら
 「ああ、そうですか。じゃぁ、そっちはあなたにお任せします」
 でダメなのかな?

 主観が人それぞれ違うのは当然なのに、そこで「議論が起きるのは必定」になっちゃう事が、なっちゃう人がやっぱり分からない。
 ニセ科学批判の人は、他人の主観まで自分と同じでなきゃ気が済まないのカナ
 
 それを長々とやってたわけではないようだけど、そんなつまらない事で仲間内で争うなんて、ホントに「ニセ科学」をなんとかしたいと思っていたのか、かなり疑問。

 そんなの、少なくとも「科学」の名の下にするべき事ではないと思うのであった。
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コメント 21

トンデモブラウ

>『大義名分』とは、「思考停止のための名分」と考える。

これはニセ科学側の方法ですね。
言いかえると、「カモを思考停止に追い込むための羊頭狗肉作戦」
科学側からは、『大義名分』とは「結論への近道へ導くための近似法的名分」と(私が勝手に)呼びます。
世の中の±3σ(4σかな?)の人は、めんどくさがりなので揺らぎ部分を詳細に考慮して悩んだりしたくないのよ。(当社調べ。)
当然『大義名分』にも『科学的事実』にも突き詰めれば揺らぎ部分に非整合性が見つかったりして、その内容が書きかえられたりするわけです。
しょうがないよね、それが現実社会だから。
揺らぎがないものを求めると、形而上的なものに行きつくのはJudgementさんの書かれている通り。

だから、揺らぎのない宗教に一刀両断で「人を殺してはいけません」としてもらえば、宗教的にはそれが『大義名分』となる。
いやぁ便利。
でも宗教は形而上的なもんだから、実生活では現実に向き合って神の教えより欲望が優先されてしまうんだね。
だって人間だもの。

私もJudgementさんほどではないけど、めんどくさい方の人間なので、めんどくさいタイプは嫌いではないです。
これからプラント設計するための機器の仕様を決めようとしている時に、プランク定数から計算しているヤツがいたらプロジェクトから外して病院に行かせますけど。
TPOはわきまえないと。
これ常識。(←つっこみどころ?)
by トンデモブラウ (2009-12-11 08:58) 

MORIX

高度な議論を展開されているJudgementさんやトンデモブラウさんの邪魔になってしまうかもしれませんが、また稚拙な提案をさせてください。

今回テーマになっている「大義名分」というのは「道徳」や「一般常識」や「正義」や「社会規範」と同じような物だと捉えてよろしいですよね? だとすると「人殺しは何故いけない?」という問への私の答は、非常に子どもっぽい「多数決でそう決まったからだ」となります。本当に稚拙な結論ですみません。

ですが、「道徳」や「行動規範」を決定するのは、「科学」でも「個人(の主観)」でもなく、「多数決」なのではないですか? 前時代的には「宗教」や「伝統・慣習」や「為政者の権力」が社会の行動規範や大義名分を決めていたと思います。が、現在の日本では「多数決」が世論も法律をも決定しています。もちろん大衆の意にそぐわない法案も次々と可決されていますから、「国民の合意」と「法律」のベン図は重ならないところもあります。が、「道徳」も「大義名分」もその内実は、Judgementさんの指摘された「掲げる個人あるいは集団の自分勝手な“幻想”じゃないかな」で概ねよろしいかと思います(ただし、個人の"幻想"は「大義名分」や「道徳」には成り得ません。それは"ひとりよがり"と呼ぶべきものです。単純に周囲の合意(多数決)を得られてないからです)。

「多数決」により決定する「常識」や「社会規範」は、複数の集団の綱引きで決まる「相対的」な価値観であると言えるでしょう。「相対的」であるということは、絶対的ではなく変化もするということですが、それがトンデモブラウさんの言う「揺らぎ部分」「揺らぎがないもの」にあたるのかは、彼の文を咀嚼できない私にはわかりません。ただ「結論への近道へ導くための近似法的名分」というのとは違うと思います。同時にJudgementさんの『「大義名分」は「真理」と同じで、人間は近づく事はできても、手に入れる事はできない。そんな感じ。』も、私は"そんな感じ"には感じません。「多数決」はそんな大それたものではありません(が、威力は強い)。

「殺人の是非」を「多数決」で説明しようとすると、非常に幼稚ですがシンプルな説明になります。今の日本社会でも「殺人をする少数派」はいます(これが揺らぎでしょうか?)けれど、「多数」の人は殺人を良くないと思っている。しかしこれが戦争などでパラダイムが転換すれば「殺人を善しとするのが多数派」となります(幼稚な喩えですみません)。そして次の説明が「ニセ科学」にあたると思うのですが、現行の日本でも「安楽死」や「脳死の人の臓器をとる殺人」などの問題は、「多数決」をもってしても決の分れるところです。「殺人」と一言で言っても、個々の事例では「是認される殺人」もあるかもしれないということです。「良いウソ」と「悪いウソ」があるのと同じですね。

で、実際それらの「脳死法案」なども国会で、要は代表制民主主義の「多数決」で可決されていくのです。「立法」にまで至らない「道徳観」なども、このような民衆の総意「多数決」で決まるものです。そしてそれは以前Judgementさんが言った「主観うずまく社会」という不確かな人の心が生み出す"世論"……ようは"幻想"そのものです。前回力説してしまった通り「科学はツール」です。Judgementさんは確かに「科学的」な人だと思います。ですが、「気付いた方も多いだろうけど、X君のようなやり方は「科学」そのものだ」X君は「科学的思考をする人物」ではあるが「科学というツール」の使い方を間違えています。「多数決」は相対的なものですから、一見「科学という客観的ツール」が使えそうに見えます。が、所詮は小学生も大好きな「多数決」です。「主観うずまく社会」の「主観」を集めた「多数決」に、「科学的な客観的根拠」を見いだすことは不可能です。し、ふさわしくありません。

by MORIX (2009-12-11 20:56) 

naoko

「道徳」や「行動規範」は個人的なものだと思う。
そこに多数決を持ってくるのはちがうんじゃないかな。
みんながYesというから自分も、が道徳や行動規範にはなりえない。
さらには社会における観念的な「主観」の総体が、その社会における道徳や行動規範になるというのもしっくりこない。
そんな頭で考えた理屈の正義じゃなくて、もっと身体性を伴ったものじゃないかな。否応なく「身体」が拒絶するというような。
そうしたある種の身体性が、ある社会、ある文化の中で育てられるという意味では、その社会固有の特色が現れるのだろうとは思うけど。国民性とかね。
宗教が形而上というのも、それはどうなのかなあ。
そういう面が強いとは思うけど、やっぱり身体性を伴わなきゃ、なかなか「信仰」には至らないという気がするなあ。こう言うと誤解を受けるかもしれないけど…。だから、妄想は怖いとかね。(←それはまた別の話)
例えば、「胸が痛む(良心)」というのも、本当に痛まなきゃ、それは行動規範にはならないわけで。当人にとって、その痛みは妄想じゃない。
同時に痛みたいと思ったり、痛むべきだと思ったからといって、本当に痛むとは限らない。みんなが痛むから自分も痛むというのはあるのかなとも思いはするけど。それは、思考や感情がどこかのプロセスで身体性を獲得したということなのではないかな。
by naoko (2009-12-12 03:19) 

naoko

つまり、道徳が多数決になってしまう社会というのは、そうした個々の良心の身体性が容易には伝播しないという前提に立っている。
そこに違和感を感じるのです。
それが現実と言われてしまえばそれまでだけど。
どうしても頷けないものがあるなあ。


by naoko (2009-12-12 03:31) 

PseuDoctor

こんにちは。

取りあえず御礼を。
ありがとう。

と言うのは第一義的には私のたった一行の質問に対してわざわざ長文の記事を書いてくれた事に対してですけど、もっと深い意味もあります。
ただ、今はそれを書いてる時間が無い。
やる事がまた増え始めてきてるし、ちょちょいと書いて済ます気にもなりません。

なので、しばらく(最低でも一週間以上)お待ちくだされ。
by PseuDoctor (2009-12-12 12:07) 

MORIX

【naokoさん】

また私の言葉が足りなかったようですね。
>「道徳」や「行動規範」は個人的なものだと思う。
>そこに多数決を持ってくるのはちがうんじゃないかな。
そうですね。私は「大義名分」も「一般常識」も「正義」も個人のものではなく、集団のものとしてだけ扱っていました。私の上の文の「道徳」と「行動規範」をそれぞれ全て「社会道徳」と「社会規範」に訂正させてください。

確かに個人の「道徳」と「行動規範」だけを考えるとnaokoさんのおっしゃる通り、『みんながYesというから自分も、が道徳や行動規範にはなりえない』というお気持ちになるのも判りますし、趨勢に流されない生き方も格好良いと思います。私は支持します。しかし人は子どもの頃から多くの「社会道徳」や「社会規範」を"しつけ"や"教育"という形で親や教師から押し付けられます。自分がYes/Noの判断もつかないウチに刷り込まれます。そしてその押し付けられる「社会道徳」や「社会規範」は、その時代の社会の総意であることが多いのではないでしょうか? お分かりだとは思うのですが、私は「多数決が良い」と主張しているのではないのです。私の好悪に関わらず「世の中は多数決で動いている」と認めざるを得ないという立場です。

naokoさんは「多数決」でしっくりこない理由として「頭で考えた理屈」と「身体性を伴う感情」の相克で説明されているようですが、私の読解力ではその論点がよくわかりません。ロゴスとパトスのようなものでしょうか? だとしたら「多数決」はパトス(感情)で決まることが多いものです。このことは次のエントリー「科学観」へのコメントで詳細を書くつもりですが、「多数決」は個人の勝手な「主観」で票が投じられるので感情に流されやすいし、印象操作も受けやすい。「多数決」はまったく論理的ではなく過ちも多い、歴代の独裁政治なども民主主義の賜物です。

それとも「それは、思考や感情がどこかのプロセスで身体性を獲得したということなのではないかな」というのは「感情」と「生理学的反応」の関係性についてのお話なのでしょうか。それでしたら心理学のJudgementさんの専門でしょうが、有名なジェームズ・ランゲ説などをgoogleしてみると面白いかもしれません。
by MORIX (2009-12-12 21:09) 

naoko

>MORIXさん
たとえば「頭でわかる」という言い方、「腹でわかる」という言い方があります。実感として違いがわかりますか?
頭でわかっているだけでは、場の状況で流されやすいし、印象操作も受けやすい。面倒なことは見てみぬふりもするかもしれない。しかし、腹でわかっていることに関しては、みすみす看過はできないでしょう。

これは、「生理学的反応」と結果として関係はあるでしょうが、言いたいことはそこじゃない。

by naoko (2009-12-13 05:45) 

MORIX

>たとえば「頭でわかる」という言い方、
>「腹でわかる」という言い方があります。
>実感として違いがわかりますか?
すみません。実感としての違いが分かりません。前の「胸が痛くなる」は実感として分かりますが、私の場合それは「涙が出る」や「嗚咽が起こる」のと同じ「生理学的反応」としてです。naokoさんはきっとそれ以上のことがおっしゃりたいのでしょう。だとすると、今の私には分からないのかもしれません。
by MORIX (2009-12-13 07:59) 

naoko

>MORIXさん
では、たとえば、もう十数年会っていない古い知り合いからその人の肉親の死による「忌中につき…」という儀礼的なはがきが届いたとします。
旧友の肉親の死という事実は誰でも理解します。
その時かすかにでも「胸に痛みを覚えた」人は、その痛みに促されるように、即座に、相手に手紙を書くでしょう。その手紙の内容はおそらく相手の気持ちを深く気遣うものになるでしょう。
しかし、そうした痛みを感じないなら、儀礼的に手紙を出さなければという意識は働いても、同時に面倒だという気持ちも生じる。なかなか身体が動かなかったり、通り一遍の手紙になってしまったりするでしょう。
「忙しくて返事が遅れました」とか書き添えて(笑)。

旧日本海軍将校の反省会の録音テープの中に、ミッドウェー海戦について、軍令部参謀だった人に対して、艦長として戦場に赴いた人物が詰問するシーンがあります。
「机上で作戦立案だけしていたあなたたちは、現場があれだけ決行を延ばしてくれと言ったのに、全く聞きませんでしたよね。あれでほんとに成功すると思っていたんですか?」
「いや、わたしも思っていなかった。だから、上司にせめて一月延ばしては、と進言したのだけど、聞いてくれなかった。」
「あんたね、何にもわかっちゃいないよ。」
「いや、わかってはいたんです。」
「頭でわかっているだけだ。本当に戦場で戦う一人一人の兵士がどんなものかちゃんと腹からわかっとったら、そんなんで済ませられるはずがない!」

このように、人に行動を促すものとして、「頭での理解」と「胸や腹での理解」という表現の使い分けがされます。

それとは逆に「泣きゃあいいと思っている」といわれる様に、全く当人の行動を促さない、単なる発散とか責任回避、あるいは自己撞着の涙もあります。

結果として両者とも「生理学的反応」ではありますが、質的には大きく異なります。
前者の身体性は、独立した個人の内面で、自我の欲求に反して人と人との結びつきを強く意識するよう促しますが、後者は自我の欲求に沿ってその結びつきを断つ方向に生じます。

わたしが‘身体性の伝播’を求める方向性として考えているのは、この前者の方です。
by naoko (2009-12-14 04:28) 

MORIX

【naokoさん】
大変よく分かりました。理解力のない私の為にわざわざ時間と労力を割いて下さって有り難うございました。naokoさんの論点は極めて人文学的な問題なのですね。そして『多数決の際には「理屈」や「科学的根拠」などではなく、個々の「感情」や「主観」の方が集票力につながる』と考える私と、何ら相反するものではないご意見だとも受け取りました。私は『多数決を科学というツールで切ってもしょうがない』と当初から主張している通りの考えです。

naokoさんは私の「多数決」という幼稚な用語を「頭でっかちの理屈で考えたこと」と受け取ってしまったのではないでしょうか。だとしたら私が使っている「多数決」という言葉を「世論」と置き換えて読み直して下さった方が意味の通りが良いかもしれません。実際「大義名分」や「社会規範」は「決」などとってはいないのですしね。もし、そのような「相対性」で決まるあやふやなものにJudgementさんが「客観的根拠」を求めても、「自然法の成立がほにゃららで、実定法や慣習法はなんたらで……」という苦しい説明をするのが精一杯でしょう。

そして懸念されている「感情の身体性の伝播」について私の見解を述べさせてもらえば、「身体性」が伴おうが伴わなかろうが、十分に伝播していると思いますよ。naokoさんはフーコーをお読みの様ですから、彼の言うエピステーメーなどはその根拠ともなるでしょう。逆に今のメディア社会では伝わり過ぎて、「自分の気持ちが容易に他人に伝わると勘違いする輩がいる」とJudgementさんが憤慨されているほどです。確かにそちらの方がずっと問題とすべき「主観渦巻く社会」なんですよね。<次回に後述します>
by MORIX (2009-12-14 20:22) 

naoko

ここで言う「身体性を伴った感覚・感情・理念」の伝播は、コミュニケーションの根幹となるものです。
残念ながら、そうした伝達は、共同体の崩壊や共同体験の喪失によって、むしろ非常に困難になってきていると考えます。
そのため、MORIXさんのおっしゃる「主観渦巻く社会」、つまり人間同士がしっくり和合の取れない社会になっている。
単なる言葉での理解、MORIXさんのおっしゃる「頭でっかちの理解」はできても、本当のところはどうもちぐはぐになっている。
ちょうど、今、わたしとMORIXさんの間の相互理解がなかなか進まないようにね。
では言葉だけじゃなく、音声を加えたら、映像を加えたら、直接会ったらどうか?
そうした互いに伝えあえる情報がどんなに増えても、なおかつ相互理解はなかなか難しいでしょう。

その理由の一つは、わたしがコミュニケーションに使っているツールとMORIXさんの使っているツールの違いにあります。

MORIXさんは、「身体性を伴おうが伴わなかろうが、十分伝播している」とおっしゃいました。
ところが、先の大戦で現場司令官たちが、必死で作戦の延期を求めた要求は、身体性を伴っては司令部参謀達には伝播せず、多くの命が失われることになりました。
それが、現代の社会においては伝播しうるとお考えですか?

その辺の考察に、かなり雑なものを感じるのです。
MORIXさんは、そうしたコミュニケーションの困難さの根幹については、考察を拒絶しているように見えるのです。
それでは、わたしがMORIXさんを「頭でっかち」と感じたとしても、非難はされますまい?

そのへんは、Judgmentさんが、次の科学観のエントリーでおっしゃっていることと関係しているんじゃないかな。
by naoko (2009-12-15 01:46) 

naoko

さらに、フーコーの考える知の枠組みの捉え方からすると、例えば現在の日本(世界においても)において、エピステーメー(同時代の知の枠組み)は、かなり分裂したものとなっているのです。
それが価値観や尺度の多様化を生んでいます。

そのため生じる社会現象の卑近な一つが、「ニセ科学批判」vs「ニセ科学批判批判」だったりします。
そのほか、大局的には「近代」vs「反近代」
              「頭・精神の尊重」vs「身体の復権」
              「個人主義」vs「関係性の回復」
              「科学」vs「スピリチュアル」
              「原理主義」vs「寛容と相対主義」
だったりします。

たとえば、フーコーの「狂気の歴史」の考察法に則って、現代において何が‘正気’とされるのか、を考える手段として、逆に現代において何を狂気と考えるか、を考察します。
すると、それぞれの立ち位置によって、狂気と正気の境界線は、かなりブレて見えるでしょう。
そういう時代なのですね。

ちなみにわたしは上に挙げたどの位置にも立っておりませんが。
実は、こうした二項対立状況がうさんくさいと感じる立場です(笑)。 
by naoko (2009-12-15 02:30) 

MORIX

【naokoさん】
毎日即座のご返答ありがとうございます。お話が「大義名分がどう決まるか」から枝分かれして、だいぶ末節の方へ進んでいる気がします。が、おかげ今度は、私とnaokoさんとの考え方の違いが明確にわかりました。話をさらに拡げてしまうことを避けるため、naokoさんのコメントに応答する形で、私の立ち位置を説明したいと思います。

>ここで言う「身体性を伴った感覚・感情・理念」の伝播は、
>コミュニケーションの根幹となるものです。
実はここで既に違うのです。私はコミュニケーションの根幹は「感覚・感情・理念」ではなく、「対話」にあると考えています。それは「感情」や「主観」を軽視するという意味ではありません。逆に自分だけでなく、相手のそれも尊重したいからこそ、「言葉の客観性」と「科学の客観性」の正しい用法にこだわるのです。

>そうした伝達は、共同体の崩壊や共同体験の喪失によって、
>むしろ非常に困難になってきていると考えます。
私は昨日言いました通り、逆に容易に成り過ぎていると危惧しています。共同体が崩壊した後を「グローバリズム(子どもがマックの味を刷り込まれること)」と「ファスト風土化(各地方がファーストフード店、ブックオフ、TSUTAYAで同一風景になること)」の世界であると捉えるからです。換言すると共同体崩壊後の「超個人主義」と「新植民地主義(ナオミクライン)」の席巻を恐れています。感情の暴走と価値観の均一化ですね。

>単なる言葉での理解、MORIXさんのおっしゃる「頭でっかちの理解」はできても、
>本当のところはどうもちぐはぐになっている。
>ちょうど、今、わたしとMORIXさんの間の相互理解がなかなか進まないようにね。
>[中略]
>その理由の一つは、わたしがコミュニケーションに使っているツールと
>MORIXさんの使っているツールの違いにあります。
私の使っているツールが「頭でっかちの言葉」だということでしょうか(違う場合はご指摘ください)? いずれにせよここで私たちが使っているのは「ネット上の言葉」という非常に表層的なツールですよね。そしていずれのツールを使うにせよ、人の『相互理解がなかなか進まない』ことを私は当然の前提としております。「何かのツールを使えば理解し合える」と考えることは非常に危険なことです。Judgementさんの嫌う「一方的な価値観の押しつけ」や私の嫌う「画一的な価値観」になる危険性があるからです。『他人の主観まで自分と同じでなきゃ気が済まないのカナ』明言です。違うからこそ語り合うのだし、歩み寄ろうとするのです。

>ところが、先の大戦で現場司令官たちが、必死で作戦の延期を求めた要求は、
>身体性を伴っては司令部参謀達には伝播せず、多くの命が失われることになりました。
>それが、現代の社会においては伝播しうるとお考えですか?
>その辺の考察に、かなり雑なものを感じるのです。
naokoさんが「雑」に感じたのも当然だと思います。それは私が『ミッドウェー開戦』の例を大変微妙な問題だと捉え、判断を記すことを避けたからです。『naokoさんの論点は極めて人文学的な問題なのですね。』とだけ言うに留めておきました。「腹で理解する」を説明するには判りやすい例だとは思いましたが、同時に大戦中の話は我々に特殊な感情を喚起してしまいます。その感情で「ミッドウェー海戦」の断片的な情報を元に『責任回避、あるいは自己撞着(正しくは自家撞着ですね)』という判断を下すのは簡単ですし、読者にも非常に訴える力を持ちます。が、それは上記で触れた「感情の暴走と価値観の均一化」につながります。本来「人文学的な問題」には幾つもの解釈があり、答があるのが健全な状態だと私は考えております。
>それでは、わたしがMORIXさんを「頭でっかち」と感じたとしても、非難はされますまい?
本当に「コミュニケーションの困難さの根幹」と「相互理解」を大切にするならばこのような言説は避けるべきだと考えますので、私は返答を控えさせて頂きます。申し訳ありません。

>例えば現在の日本(世界においても)において、
>エピステーメー(同時代の知の枠組み)は、かなり分裂したものとなっているのです。
共同体が崩壊したのに、分裂しているという世界観には矛盾を感じますね。確かにかつての村社会の方が、その中での「身体性を伴う関係」や「共同体験」があったというnaokoさんの意見には賛同できます。が、その共同体が集合したものが国家、世界なのですから、大局的には『日本(世界においても)において』も昔の方が分裂していたはずでしょう。私は今の日本も世界も、やはりグローバリズムと工学により(不健康に)統合していると考えます。そして私が「身体性を伴おうが伴わなかろうが、十分伝播している」と言った根拠は、古くはマクルーハンから近年の東浩紀まで、原始化や動物化と呼ばれる現代人の直情型の行動が問題視されているからです。「すぐキレる若者」や「リストカットや猟奇事件の伝播」など身体性を伴うどころか身体そのものを伴った奇行、先ほどの『ミッドウェー開戦』の例ではありませんが「全米が泣いた」などの情動的なメディアとそれに流される民衆。これらはnaokoさんの意に反して「頭でっかち」ではなくその逆(知性の損失)を理由とするのが識者たちの見解です。naokoさんの懐古する「身体性の伝播」が実体を失いつつ肥大化し、昨今の「ムラ社会」から「プレカリアートの右翼化(永井俊哉)」などに繋がることの方がずっと心配なのです。(短い文で多くを説明しようとするとどうしても専門用語が増えてしまいます、ごめんなさいJudgementさん)

>それが価値観や尺度の多様化を生んでいます。
>そのため生じる社会現象の卑近な一つが、
>「ニセ科学批判」vs「ニセ科学批判批判」だったりします。
>[中略]
>実は、こうした二項対立状況がうさんくさいと感じる立場です(笑)
ですから『うさんくさい』どころか、私は「価値観の多様化」は大歓迎です。私は「ニセ科学批判」を「批判」するもう一つの目があることを健全だと思いますし、その目であるJudgementさんのされている事を否定するつもりはありません。二項対立よりも、三項、四項と別れて「対話」や「議論」の成立する方がずっと自然で住みやすい社会だと思います。この「多様化」を受け入れるかどうかに、私とnaokoさんの立ち位置の違いが大きく表れていたのですね。
by MORIX (2009-12-15 22:39) 

naoko

お返事ありがとうございます。
しかし、この『対話』は、こうして向き合っているわれわれはかなりしんどい状態ではありますが、客観的に見ると、大変面白いケース・スタディになっているのではないか、という気がします。

MORIXさんがおっしゃるように、わたしも『対話』は大切にしたいと考えております。せっかくですから率直でありたいと思うと同時に、どこまで踏み込むべきかと悩ましいところでもあります。

ぽつりぽつりといきましょう。
わたしはMORIXさんのおっしゃる「知性の損失」も「頭でっかち」も、同じ現象の裏表にすぎないと見ています。それを、「身体性の喪失」と捉えているわけです。
この身体性という言葉がまた、自分で言っていてかなりわかりにくいだろうとは思うのです。ここでは、それを『対話』をする上での相手の人間性に関する‘手ごたえ(触感)’とでもしてみましょう。

対話や議論が成立するためには、最低限の信頼関係の基盤となる「安心できる感触」を必要とするわけですが、その信頼感を支えるものをMORIXさんは「論理性」や「科学的思考法」に求めているわけですよね。
それは、わたしも大切な一面だと思っています。
そのほかに、もう一つ大事なものがあり、それが「互いの人間性への信頼」だとも思うわけですが、それはMORIXさんも同意されるでしょう。
ところが、この‘互いの人間性’の判断基準は極めて言語化が難しい。
それでも対話の中で、互いにそれを探り合うわけです。
その時、互いの心の中でどのようなツール(あるいは尺度)を用いて判断しようとしているか、そこが問題になるわけです。

人間を判断しようとする以上、そこに人間的な経験のストックが生かされることになります。(←このストックは身体性を伴うものでなければならないというのがわたしの主張。さもなければ、それは身勝手な妄想になってしまう。それをMORIXさんは「主観の暴走」と捉えているのではないかと。そして、それにはわたしも同意。そうした主観の檻にとらわれている場合には、(主観的な)知の枠組みは際限なく分化していき、MORIXさんのおっしゃるように、最後には無に帰すことで、画一化が達成されることになります。おそらく、現代はそういう地点にあるのかもしれませんね。)

ですから、MORIXさんは、その経験自体が「多様化」しているのだから、そうした経験知のストックは当てにならないという立場なのかな、と感じます。
一方、わたしは、いつの時代もどこの国でも、そうした人間的な知恵は通用すると考える。

もちろん「あなたはこういう人間だ」と決め付けるわけではなく、「この点はどうなのだろう?」と問いかけるわけです。
しかし、そうした問いかけそのものが、MORIXさんからすると、どうも大変居心地が悪いように見受けられます。
なぜなら、自分の認めていない尺度を用いて測ろうとする試み自体が、対話相手であるわたしが主観的で勝手な尺度による決め付けに向かっていると感じていらっしゃるのではないでしょうか?

‘ミッドウェー’は、単なる例示なのですが、それにまつわるわたしたちの認識のすれ違いは、かなりはなはだしいものがあります(笑)。

そこから、わたしは上に挙げたように感じ、考えたわけです。
こうした対話の齟齬は、どうもニセ科学批判VSニセ科学批判批判の場合にも似たような具合に起こっているのではないかな。
by naoko (2009-12-16 02:28) 

MORIX

【naokoさん】
大変申し訳ありません。
>MORIXさんは、その経験自体が「多様化」しているのだから、
最後に来て、私が上記したの正反対の結論になっているようです。
>そうした経験知のストックは当てにならないという立場なのかな、
>と感じます。
私も「経験知のストック」は当てになると思いますが、「言葉」も大切です。発する時も、読み取る時ももう少し「正確」を心がけて頂けると有り難いです。「正反対の結論」にお答えしても、お話がそれる一方なので、まだ控えさせていただきます。

by MORIX (2009-12-16 07:05) 

naoko

おかしなことを言いますね。
わたしは「結論」を出しているわけではありませんよ。
「わたしはこのように感じるのですが?」、あるいは、「あなたはこう感じていらっしゃるのですか?」と、問いかけをしているだけです。

やはり、互いの経験値のストックをすり合わせる作業(‘手ごたえ’をはかる作業)が、どうもあなたは苦手なようだ。

とはいえ、だいたい予想どうりの展開です。(残念ながら)

このように、‘互いの人間性’に対する信頼関係を築いていく作業は、現代の日本ではなかなか至難の業なのですねえ。
by naoko (2009-12-16 11:03) 

naoko

とはいえ、いろいろ丁寧に付き合ってくれてありがとう、MORIXさん。

今度はまた別のアプローチを考えてみますね。

それから、場所を快く貸していただいて感謝します、Judgmentさん。

ではまた。
by naoko (2009-12-16 13:17) 

MORIX

【naokoさん】
結論ではなかったのですね。それでは私がその箇所を「誤読」したということになります。大変失礼申し上げました。私は筆者の意図通りに読めなかった場合を、自分の「誤読」と捉えるようにしています。それはたとえ原文が悪文だったとしてもです(naokoさんの文が悪文だと言いたいのではありませんよ、念のため)。ただ私は、これまでも主張し続けて来たように「言葉の客観的で正確な使用」には相当こだわっていますので、私の誤読の原因も説明させていただきます(大変見苦しい、蛇足となりますけどね)。

naokoさんが「結論」ではく「問い掛け」だとおっしゃっている箇所、『ですから、MORIXさんは、その経験自体が「多様化」しているのだから、/そうした経験知のストックは当てにならないという立場なのかな、と感じます。』を、私はスラッシュまでが「断定」もしくは「前提」であると読み取ったのです。naokoさんは「文全体が問い掛け」のおつもりだったのですね。これはテキストのみに頼らざるを得ない場合、よく起こる行き違いですね。

しかし私はそのような行き違いを避けるために、必ず「文脈」も追いかけながら精読する姿勢を心掛けています。今回の場合はその直前の『そうした主観の檻にとらわれている場合には、(主観的な)知の枠組みは際限なく分化していき、MORIXさんのおっしゃるように、最後には無に帰すことで、画一化が達成されることになります』という文でした。ここでもnaokoさんは私の昨夜の書き込みとは逆のことを『MORIXさんのおっしゃるように』と記されているのです。それが私が「naokoさんに正確に読んでいただけなかった」と判断し、「正反対の結論にお答えしても、お話がそれる一方なので、まだ控えさせていただきます。」とお返事した理由です。

ですからnaokoさんは、現時点でも私の文を正確にはお読みになられていないように思えます。確かに「グローバリズムと工学」以下のくだりは、前知識がないと相当読み取りにくい主張だと思います。ご要望であれば、詳細な説明もいたしますよ。ただそこが難しいにしても、「私は現代を「価値観の均一化」と捉え、それより「価値観が多様化し対話の成立する社会」が健全だと思っている」ということだけは伝わるように書いたつもりです。naokoさんはそれを「MORIXが現代を「分化・多様化あるいはその末に無に帰するもの」と捉えている」と誤読されているようでしたからね。

私も誤字・脱字は多い人間ですが、言葉には気をつけたいと常に思っています。そしてnaokoさんのおっしゃるような「経験知」や言外で伝わる「心象」や「相手の人間性に関する‘手ごたえ(触感)」についても自分ではわかっているつもりです。だからこそ失礼にもJudgementさんに「人格攻撃はやめましょう」と諫言しているぐらいです。naokoさんのおっしゃった『対話や議論が成立するためには、最低限の信頼関係の基盤となる「安心できる感触」を必要とする』『もう一つ大事なものがあり、それが「互いの人間性への信頼」だとも思うわけですが、』『ところが、この‘互いの人間性’の判断基準は極めて言語化が難しい。』などの言葉にはまったくもって賛同しますし、そのような態度も立派だと感じます。実際、このようなネット上だけのやりとりをしながらもnaokoさんのお人柄や背景など余計なことまでをも想像しながら、あなたの行間にそれを求める自分がいます(ストーカーじみて気持ち悪いと思われるかもしれませんが)。いくらネットだとはいえ、生きている人間がコミュニケーションしているのですからそれは当然のことでしょう。そしてネット上だからこそ、今回の『やはり、互いの経験値のストックをすり合わせる作業が、どうもあなたは苦手なようだ。とはいえ、だいたい予想どうりの展開です』とか、前回の『それでは、わたしがMORIXさんを「頭でっかち」と感じたとしても、非難はされますまい?』などの言葉には、naokoさんの大切にする「お互いの人間性への信頼」との矛盾を感じずにはいられないのです。もちろん人は日々の気分でも大きく変化する生き物ですし、それで引導を渡しているわけでもありませんけどね。私の方としましては、naokoさんが昨日の私の書き込みを正しく読解してくだされば、その先の議論へも進みたい所存です。
by MORIX (2009-12-16 19:14) 

naoko

なるほど!
では、わたしとMORIXさんの論理の相違点は、社会の現状の認識をどう表現するか?という点にあったのかもしれません。

端的に言えば、MORIXさんは現状を画一化の方向性で捉えている。おそらくそれはある面で正しいのでしょう。なんらかのネットワークの内にある構成員同士は、一種の画一化されたコミュニケーション様式(表現形態)に頼る傾向があるのは確かだと思います。カルト、ネットウヨク(左翼も)、オタク文化、ブログ言論などにもそうした傾向は見られますね。
表現形式・内容に逸脱があまり見られないことは、集団内の個人の内面も似通っていることを予想させます。
しかし、一方そうした集団内における人間同士の親密度・交流の深さは、わたしの経験からすると、どうもあまり当てにならない。相手の内面に対する関心よりも、むしろ孤独を恐れるあまり、時にはむやみに一体感を求める傾向すら感じます。(←これが、MORIXさんのおっしゃる「主観の暴走」の背景にあるのではないだろうか?そうなった場合には、集団内で排除の論理が強く働き、異なる価値観への許容度は極端に低くなる。それをMORIXさんは案じていらっしゃる?←問いかけです・笑)

とはいえ、集団の構成員同士の内面(主観)は、意外とバラバラなのではないか、という気がするのです。
ただ、‘個として立つ’自信がないために、しかたなく集団に属している人も多いのではないか、と思います。
そのため離合集散が起こり易く、それを悲哀として経験した人々は、ますます確固とした共同体への依存を希求するようになる。
それは「自由への恐れ」のようなものかとも思います。

と、ここまではそれこそ、わたし自身「頭で」考えたことです。
わたしとしては、そうした現状の背後に、他人を信じない、あるいは個と個としての結びつきが薄く、長く信頼関係を保てない「人間のあり方」の問題を感じるのです。
それは究極的には他人の主観も自分自身の主観も信じ得ないニヒリズムへ向かうのではないか、という意味を込めて、‘主観が無に帰す’と表現したかったのです。
わたしが危惧しているのは、そうしたニヒリズムへの志向性にあります。

ちょっと言葉使いが不正確で荒っぽかったせいで、いらぬ誤解をさせてしまったかもしれません。

ところで、わたしはもともと言葉は荒っぽいのです。というか、だいたいいつも直球勝負です。内面と裏腹な言葉などは、あまり持ち合わせておりません。たとえ嫌われても馬鹿正直にいくのが信条です。
MORIXさんに対しては、ずいぶん失礼な物言いをしているのかな、とも思うのですが、今のところ、MORIXさんに対して、皮肉や嘲笑といった感情はありません。(←あったら対話できませんよね。)

しかし、わたしは怒りや失望の感情はよく抱きます。(←そして表現してしまいますので、根には持ちません)
MORIXさんにしっかり向き合おうとしている姿勢の一部と考えていただけると幸いです。
by naoko (2009-12-17 04:13) 

naoko

↑自分で書いていて、ずいぶん都合の良い言い回しだな、と反省。
わたしの表現が、MORIXさんに‘感情の牙’と感じられたとしたなら、それはやはりわたしの問題です。
反省します。

ごめんなさい。

ところで、一方ではMORIXさんの書き方にもちょっとわたしの神経をさかなでしていた部分があるのですよ。
たとえば、「身体性をともなおうがともなわなかろうが伝播する」という部分。
これはかなり聞き捨てならないところだったので、それに対するわたしの返答が「腹でわかる」にまつわるミッドウェーの例示。(←身体性をともなっては伝播しなかった例)
ここでわたしはMORIXさんを「頭でっかち」と批評(←これがわたしのいけないところ)
そして、理由はどうあれ、MORIXさんは一時それに回答を拒否された。(これがわたしには肩透かしと感じられました。)
そして、MORIXさんは「わたしの懐古する身体性」と表現。(これがまた、皮肉に聞こえたのです。)
これもまた聞き捨てならなかったのですが、ともかく自分の考えに対して相手の理解を深めてもらうことが先決と考え、身体性を対話の触感(手ごたえ)と表現してみる。
わたしとしてはこうした触感(身体性の一部)が懐古するしかないものであるなら、異なる価値観は決して融合せず、際限なく分化していくだけだろうという考えから、MORIXさんの主張を理解できなかったのです。
そこで、かなり丁寧な説明を心がけ、自分なりに推測を交えて問いかけてみたところ、「結論」が間違っていると言われて、根本的にかみ合わないと思い対話を断念する。
そうした結果に終わることはよくあるので、「まあ、いたしかたないかな」と、思っていたところでした。
そこに、MORIXさんの丁寧な返答をいただいて、望外のことと、感謝しております。

互いにかなりギクシャクはしましたが、結果オーライということで、先に行きましょうか?
by naoko (2009-12-17 05:47) 

MORIX

【naokoさん】
ありがとうございます。
『互いにかなりギクシャクはしましたが、結果オーライということで、先に行きましょうか?』
この言葉をお聞きして、ほっと胸を撫で下ろしました。そして私の言葉や表現、そして返答の仕方にも至らないところがあった事にも気づかされました。謝罪したいと思います。ごめんなさい。(本当はもっときちんと感謝と謝辞を書きたいところなのですが、あまり「いわゆる馴れ合い」のような言葉をやりとりしてしまいますと、私の「身体性」がくすぐったくなってしまう気質なので、短い言葉で失礼します)ただ、naokoさんの潔いコメントには、本当に敬意を表します。

ところで我々の話も「大義名分」というタイトルから大分外れてきたようですので、場を次の「私の科学観?」の方へ移しませんか? PseuDoctorさんが次にと予告されているコメントが下へ下へと先送りになってしまうことが、ずっと気掛かりでした。これも私の勝手な憶測ですが、エントリーに関連することはJudgementさんとしても同一スレッドにまとめられたいと思い、ここで私たち二人だけのやりとりを続けさせて頂いていたのですが、もうそろそろ潮時かな、と思います。

私が「科学観」の方で(また勝手に)提案したいことは、「科学的価値観」と「人文的価値観」を分けましょうということです。要は「客観的事実」と「相対的価値」を仕分けしなければ、「ニセ科学批判」vs「ニセ科学批判批判」の議論が進展しないのではないかという提案です。なのでJudgementさんの「科学観」を書いて頂き、私の科学観を1〜5の箇条書きでまとめました。そこで「科学的価値観=客観的事実」の線引きをした後は、「人文的価値観=相対的価値」の方に議論が移ることが予想されますし、私自身はそちらの議論をしたいと希望しております。

今我々が取り上げている「身体性」の話も「価値観の均一化・多様化」の話もあちらの方がふさわしい気がします。そして今回naokoさんが「問い掛け」て下さった『これが、MORIXさんのおっしゃる「主観の暴走」の背景にあるのではないだろうか?そうなった場合には、集団内で排除の論理が強く働き、異なる価値観への許容度は極端に低くなる。それをMORIXさんは案じていらっしゃる?』は、そうです。まさしくその通りです。お汲み取り頂きありがとうございます。おそらくJudgementさんが「ニセ科学批判×4」をされる要因の一つもそこにあると思います。しかし、またnaokoさんがその後でお書きになった『それは究極的には他人の主観も自分自身の主観も信じ得ないニヒリズムへ向かうのではないか、という意味を込めて、‘主観が無に帰す’と表現したかったのです。』という言葉は私には無かった発想ですので、そういう方との対話こそ、私がこの場に望むものです。勉強になります。今後も意見の「相違」もあれば「同意」もあるかと思いますが、お付き合い頂ければ幸いです。


by MORIX (2009-12-17 18:53) 

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