So-net無料ブログ作成

「空気」と「世間」 [書評]

 さてさて、今回も調子に乗って本紹介。
 前々回、前回、今回の3連続は私としてはひとまとまりのつもり。
 もし、ここが当ブログの初見であれば、2つ前から遡って読んでみて欲しい。

 実は、最初から「<対話>のない社会」と、「世間さまが許さない!」とこの本の3冊を紹介するつもりだったんだけど、最後の1冊で時間がかかってしまった。

 それだけの価値があるほど、いい本よ。
 かなり長くなったけど、これでもかなり削ったんだ。
 「<対話>のない社会」は“世捨て人風”の著者で、「世間さまが許さない!」は“学者”風の著者とすれば、この著者の目線はより私達に近く、また、自ら悩んだ人ゆえの「やさしさ」があると思う。

 世の中のもやもやに悩める人には、今まで紹介した3冊の中ではイチバンのお勧め。
 それが上手く伝えられない私の才能の無さを呪うばかりだ。
 ...と言って、cosiさんの購買意欲を刺激してみる。
 (前の2冊で得たものがある人なら、これは絶対読まなきゃソン)
 
 で、それにかまけてて皆さんのコメントの大部分を放置しちゃってたけど(勘弁!)、それでもこの記事の完成を優先させた理由があるのね。
 この本こそ、「<対話>のない社会」や「世間さまが許さない!」に寄せられた皆さんのコメントに非常に関係がある(と思われる)ような話なんだな、これが。
(私の先見の明にはビックリ←って、自分で言うな)

 とはいえ、話の流れが変わる前に早くアップしなきゃと、色々言いたい事を削ったりもしたので、次は一連の本の内容を総括した記事を書いて、そこに盛り込みたいと思っています(また私からの反応はおろそかになるかもしれないけど、どうぞ皆さんお互いにやりとりを続けてくださいな)。


【あらためて】

 で、紹介する前に言っておきたいことが幾つか。

 前々回からの本の紹介は、「これが正しい答え」と言いたいつもりでやっているわけではないし、自分と似たような考えを知識人もしている、という箔付けのつもりでやっているわけでもない。

 本の中から見つけ出した「ああ、こういう事を言いたかったんだよ」とか、「ああ、こういう表現だと私の考えもすっきりする」とかいうものについて、しれっとさも自分で考えたかのように言うのは憚られるし、さりとて、わざわざ自分の言葉に“劣化”させて言うのももったいないから、自分の言葉の代わりに「部分引用」しているってわけ。
 私の引用と解説とそれに伴う主張は、あくまで「Judgementの文脈の上でのもの」と認識してよね。
 
 あと、「<対話>のない社会」と「世間さまが許さない!」と、今回紹介する本は、共通する単語、似た意味の単語が出てくるけど、必ずしも「全く同じ意味」で使っているとは限らないので、その辺は混乱せぬよう。
 

【『「空気」と「世間」』 】

 前置きが長くなりましたが、今回ご紹介する本はこちら。

 『「空気」と「世間」』 鴻上尚史 講談社現代新書

 著者は、TVにもたまに出るし、エッセイも書いているので聞き覚えのある人もいるだろう。中には「見た事はあるけど、ナニモノ?」という人もいるかもしれない。
 一応解説すると、元々は(多分今もだけど)「第三舞台」という劇団の主宰者。
 ...といっても、やっぱりピンと来ない人もいるだろうけど、まぁ適時ググッてくれ。
 
 私はこの人の戯曲のファンなんだな(書籍として出ています)。
 直接「第三舞台」の演劇を見た事は無いけれど、大学の演劇部が彼の脚本である「デジャ・ヴュ」や「朝日のような夕日をつれて」をやったのを見て、非常に衝撃を受けた。
 
 「言葉はいつも思いに足りない」も彼の戯曲で覚えた言葉。
 これは、伝える事をはなから諦めてる人がしたり顔で言うセリフではなく、伝えようと精一杯やってそれでも届かないせつなさとして語られる。それがどこか当時の私とシンクロするところがあったのかもしれない。

 劇団の人が何故『「空気」と「世間」』なの?といぶかる人もいるかもしれない。
 彼は別に“社会派”の人ではないけれど、(私の感想で言えば)、彼は演劇で「世界と個人の断絶」を語ってきた。だから、この本もその延長上にあるものと思う。

 なお、この本は阿部謹也氏の「世間」研究と、山本七平氏の「空気」研究を紹介しつつ著者の解釈と主張を述べる、という形なので、部分引用すると誰の主張か分かりにくいとは思うけど、そこを分類するのはこの記事の主旨ではないのでご了承を。


【世間と社会】

 まず、著者は「周りの目を気にせず電車の場所取りを平然とするおばさん」、「網棚の忘れ物が盗まれないすばらしい日本」、「お年寄りに席をゆずらない不道徳な日本」などを例に取ります。
 それらを説明するためのものとして「世間」と「社会」をこう分類します。

 ・ 自分に関係のある世界=「世間」
 ・ 自分に関係のない世界=「社会」
 おばさんは、「世間」に関心があっても、「社会」には関心がないのです。そして、自分の「世間」に属している人のためには必死で走り、電車の席を確保するのです。
 でも、「社会」に属する人たちには、おばさんは、必死になにかをする必要は感じないのです。「すみませんね。ここは、あたしたちの席なんです」と微笑みながら断る人もいれば、まったく関心がないように無表情のまま無視する人もいます。
 そう考えれば、網棚に残されたバッグと、優先席で席を立たない日本人は、同じ原理・ルールで動いているということが分かります。
 ほとんどの日本人にとって、網棚に残されたバッグは、自分とは関係のない世界「社会」なのです。
 同じく、目の前に立っている杖をついた老女もまた、関係のない世界「社会」なのです。
 関係のない世界だから、存在しないと思って無視したのです。それが、網棚のバッグなら、「盗みのない奇跡のモラル」になり、優先席の場合なら、「足の悪い人を立たせている最悪のマナー」になるのです。

 きっと「世間=社会」という認識の人も多いとは思いますが、それはさておき、著者のように区別してみると「何でそうなっちゃうんだろう」とモヤモヤしていた事に関する道筋がハッキリしてきます。


【世間とは何か】

 さて、著者は「世間」の正体を掴むため、まず阿部氏の「世間」研究を紐解きます。
 著者による阿部氏の言葉の要約は次のとおり
 日本の「個人」は、「世間」の中に生きる個人であって、西洋的な「個人」など日本には存在しないのです。そして、もちろん、独立した「個人」が構成する「社会」なんてものも、日本にはないんだと言うのです。
 日本人は、「社会」と「世間」を使い分けながら、いわば、ダブルスタンダード(二重基準)の世界で生きてきたのです。
 「社会」とは、文字と数式によるヨーロッパ式の思考法です。「近代化システム」と呼べるものです。僕たちは、「建前」と言ったりします。
 「世間」は、言葉や動作、振る舞い、宴会、あるいは義理人情が中心となっている人間関係の世界です。「歴史的・伝統的システム」と呼べるものです。「本音」ですね。
 が、これまでの社会学者や歴史学者は、「世間」のことを、例えぱ、「封建遺制」(古くて、残ってしまったシステム)と呼んで、やがては滅んでいくもの、間違ったもの、改良していくもの、だと考えています。
 けれど、「世間」つまりは、「歴史的・伝統的システム」こそが日本人が生きている世界だと、阿部さんは言うのです。

 この構造は、「<対話>のない社会」でも「世間さまが許さない!」でも指摘するところですね。
 『「対話は大切だ」と言いつつ、実は対話を望んでいない状況』、における『「民主主義だ」と言いつつ、実は民主主義を望んでいない状況』と同様に、表向きは『世間なんて存在は「封建遺制」だ』、『個人を尊重する社会が正しい』等と言いつつも、実際はそう発言する当の本人も「世間」にどっぷり浸かっている状況なわけです。
 どちらを選択するのが正しいのか、という話ではなく、ダブルスタンダードである事が様々なやっかいな問題を引き起こすと私は考えます。
 確かに、たまに耳にする「それは理屈だ」という言葉は、このことを象徴しているでしよう。
 この言い方は、例えば英語には翻訳不可能です。理屈にあっているのなら、なんの問題もないのですから、「それは理屈だ」というのは、ほめ言葉になっても、けなし言葉や拒否の理由にはならないのです。
 ですが、あなたと僕が日本社会に生きているのなら、この言葉が含んでいる意味は簡単に分かります。「それは理屈だ」というのは、「人間というものは、そんなに簡単に理屈で割り切れるものではない。論理的には、お前の言っていることは正しい。けれど、それでは、世間は納得しないだろう。もっと人間の事情や感情を考えろ」ということです。

 表向きの言葉に騙されて主張すると、すぐに「それは理屈だ」で足を払われる。
 それは「建前を真に受けた側」にとって非常に理不尽な行為なわけです。
 「対話が大切だ」と言っておきながら「だけど、ちょっとは考えろ」と言うのも同様。
 しかし、「本音と建前」というダブルスタンダードを駆使する側は、それを決して理不尽と思わないどころか、当たり前の事として信じて疑わないところがやっかいなのですね。
 
 どういう問題を生むかというと、「互いに信頼を損なう」ってのが考えられる。
 片方は相手の言う事が信用できなくなり、もう片方は(自分の気持ちも知らず)平気で理屈を言う相手が信用できなくなる。
 互いの信用がなくなる、なんて事は、それこそ「世間」という崩壊を押し進める事になるんではないかと思う。

 そもそもそういったダブルスタンダードは、「言う事を聞かせたいが責任を取りたくない」、という虫の良い思惑が生んでいるように思える。
 対話を求めるフリだけしつつ“対話を封じて”自分の望む事を言わせながら、ミスが発生すれば「キミが納得してやった事じゃないか」と責任をかぶせるわけだ。

 それだったら、最初から「上意下達」で人の意見など聞かない代わりに、「何かあったら世間(を代表するオレ)が全て責任を持つ」という態度を取ってもらう事こそ、まっとうな「世間」の活用方法じゃないかな。
 
 それを前提とした上で「黙ってればいい」と言うのならば、「分かりました、そのようにします」と言うだろうケド、「責任を取る人」ではなく「弱者」を持ち出されると、ちょっとね...。


【世間のルール】

 さて、この本には阿部氏による「社会」と「世間」の比較一覧表が載っていますので、紹介します。
なお、阿部氏による「社会」とは西洋的な「個人の集合体」を意味し、それを日本的な「世間」と比較しています(冒頭で紹介した著者の分類とはひとまず切り離してください)。
社会:契約関係 / 世間:贈与・互酬の関係
社会:個人の平等 / 世間:長幼の序
社会:個々の時間意識をもつ / 世間:共通の時間意識をもつ
社会:個人の集合体 / 世間:個人の不在
社会:変革が可能 / 世間:変革は不可能
社会:個人主義的 / 世間:集団主義的
社会:合理的な関係 / 世間:非合理的・呪術的な関係
社会:聖と俗の分離 / 世間:聖と俗の融合
社会:実質性の重視 / 世間:儀式性の重視
社会:平等性 / 世間:排他性(ウチとソトの区別)
社会:非権力性 / 世間:権力性

 その上で、著者は以下のように3つの「世間」の根本原理(1~3)と、2つのその結果の特徴(4・5)を示しています。

 1 贈与互酬の関係  2 長幼の序  3 共通の時間意識
 4 差別的で排他的  5 神秘性

 そして、これらを著者は「世間のルール」として紹介しています。
 順次紹介していきましょう。


【世間のルール1.贈与・互酬の関係】

 いわゆる、「お互いさま、もちつもたれつ、もらったら必ず返す」の関係です。
 阿部さんはすごくシビアに「重要なのはその際の人間は人格としてそれらのやりとりをしているのではないという点である。贈与・互酬関係における人間とはその人が置かれている場を示している存在であって、人格ではないのである」(『近代化と世間』朝日新書)と書きます。
 つまり、山田部長という人がいると、部下たちは、山田さんに贈っているのではなく、部長という立場の人に贈っているということです。当然、山田さんが部長でなくなれば、お中元やお歳暮の贈り物はなくなるし、山田さんが課長に降格したら、贈り物の質は下がる、ということです。
 それは当たり前だろうと、日本人であるあなたは思うでしょう。
 でも、それを身も蓋もなく言ってしまえば、あなたに贈っているのではなく、あなたの地位に贈っている、ということになります。


【世間のルール2.長幼の序】

 年上か年下か、という事がものすごく大切であるということ。
 これは、日本人には非常に身に染みた感覚でしょう。
 年齢だけではなく、いわゆる「その世間に組み入れられてからの時間経過」も重視されます。浪人して学校に入った場合、「学年が上の年下の人」も「先輩」として崇め、敬語を使わなくてはならない状況は良くあります。
 僕は日本人ですが、じつはこのことに関してはずっと反発していました。先輩だろうが後輩だろうが、素晴らしい人は素晴らしい。年がひとつ上というだけで、どうして尊敬を強制され、命令に服従しなけれぱいけないのか。
 尊敬とは、学年がひとつ上だからという理由で強制されるものではなく、素晴らしい人を見て自然に心の中から湧き上がってくるものです。
 けれど、あなたも知っているように、ろくでもない先輩ほど、先輩風を吹かして、後輩に自分を尊敬するように強制します。中身のない先輩ほど、年上という理由だけで威張り、後輩をいじめるのです。

 ...最後の話が非常に納得。


【世間のルール3.共通の時間意識】

 同じ「世間」を生きる人は、お互い、同じ時間を生きているという感覚を欲するということ。
 阿部さんの文章を引用しましょう。
 日本語の挨拶に「今後ともよろしくお願いします」と「先日は有難うございました」という言葉があり、常に使われている。しかしこの二つの挨拶は欧米には存在しないのである。欧米の個人はそれぞれ自分の時間を生きており、その時の相手と常に同じ時間の中で暮らしているとは思っていない。しかし、日本人は「世間」という共通の時間の中ですべての人が生きていると考えているから、このような挨拶が生まれるのである。
 (前掲『学問と「世間」』)

 ここで言う「同じ時間」というのは、「同じ時間を共有してきた」という意味になります。
 この項目は、私にとって“ああ、あれはそういうことだったのね”という納得がありました。
 日本の会社員は働きすぎだと言われます。といって、長時問、集中したままバリバリと働き続けている人は少数派だと、あなたも知っていると思います。働いていると言っても、その実態は、長時間の会議、長時間のダラダラ残業、長時間の打ち合わせの結果です。つまりは、会社に長くいることが、働きすぎだと言われる主な原因です。
 それは、じつはお互いが同じ「世間」を生きていることを確認するために、同じ時間を過ごすことが目的となっている状態なのです。
《中略》
 逆に言えば、同じ時間を生きていると思えない相手は、同じ「世間」のメンバーとは認められないのです。
 それは、会社やグループ、サークルなどで飲みに行く時、一人、「私、帰ります」と言って違う時間を過ごしてしまう人が、「世間」から排除される構図なのです。
 「世間」の一員として受け入れてもらうためには、仕事があろうがなかろうが、同じ時間を過ごすことです。効率とか余暇とか、そんなことを考えていては、「世間」は受け入れてくれないということになります。

 なるほど、「意味の良く分からん会議」や「休暇が取りにくい雰囲気」とか「飲み会を断りにくい雰囲気」の原因って、これなんだなぁ。
 ここまで読んできて、つまりは、個人の時間はないんだとあなたは気づいたでしょうか。「共通の時間意識」とは、つまりは個人ではなく、集団として生きていく、ということです。
 個人が自分の時間を使うのではなく、社員や子供やメンバーとして、その「世間」全体の時間を生きていく。
 ここから、阿部さんの「わが国の『世間』は人が作り上げてゆくものというよりは、運命的に存在しているもの、所与として受け止められていったのである」という分析が出てくるのです。
 これを少し難しい言葉で、「所与性」と言います。自分でつかみ取るものではなく、与えられているもの、ということです。「世間」という共同体は、自分が選んだものではなく、知らないうちに巻き込まれ、そこにすでにあるものだということです。


【世間のルール4.差別的で排他的】

 「自分が属する世間の仲間」に対しては非常に気を遣うけど、その一方で「自分が属する世間の外側の人」に対しては、無視する、あるいは下に見る。また、自分の属する「世間」のルールを破れば、差別され、除外される、そんな事です。
 そしてそれは、恐ろしい事に当の本人にはその自覚はありません。
 この章の冒頭に書いた、席を必死で取るおばさんは、間違いなく、「差別的で排他的」です。ですが、本人にはそんな意識はありません。ただ、「世間」の仲間に対して気を使っているだけです。
 けれど、すぐ後ろにいて、席がまだ空いているのに座れない親子連れにとって、そのおばさんの「世間」は「差別的で排他的」と感じられるのです。

 私は今まで「部落差別」という“風習”を感じないで育って来ましたが(おそらく、転勤族なので、そういう「世間の暗部」まで踏み込む事はなかったのでしょう)、最後の一文に非常に含蓄があるので紹介します。
 阿部さんは、部落差別についてこう書いています。
 被差別部落に対する差別は「世間」と無関係に存在していたのではない。なぜなら「世問」それ自体が差別的体系であり、閉鎖的性格をもっているからである。私たちは日々の日常生活の中で「世間」からはみ出さないように細心の注意を払って暮らしている。「世間」が差別的体系であることをよく知っているからである。毎日このような差別的体系の中で暮らしている私たちはその外に被差別民を設定し、そこに差別の視線を向けることによって自分たち自身が差別者であると同時に差別されているという事実を隠そうとしている。(前掲『学問と「世間」』)
 肌の色の違いの人種差別ではなく、男女差別でもなく、ただ、被差別部落出身だという、今や世界的に珍しい「目に見えない」差別の根拠はこれだというのです。
 逆に言えば、差別することで「世間」を存在させている、ということです。

 『差別する事で「世間」を存在させる』、これは「世間」の外側にいると敏感に感じるのですが、しかも内側にいる人は全く意識していないどころか、指摘されても「そんなつもりは無い!印象操作の不当な言い掛かりだ」と騒がれたりして、愕然とする代物です。

 さらに著者は「日本的で欧米にないじめ」として、『クラス全体が一人の人間に対して、「何もしないいじめ」』を挙げ、こう言います。
 何もしないでいじめることで、「世問」を成立させているのです。
 そうやって、差別し、排他的に振る舞うことで、自分たちは同じ「世間」に所属しているんだと確認するのです。

 いわゆる“スケープゴート”を作る事で、自分が「世間」に属する事を確認するわけですが、同時に「世間」という「圧力」の強さを見せつけられる事で、その「世間」から“足抜け”する事を躊躇させる理由にもなるわけですね。
 高い塀は、身を守るためにも、逃がさないためにも使える。


【世間のルール5.神秘性】

 「神秘性」について著者は、「戸惑うかもしれませんが」と前置きした上で、『なんのことはない、「世間」に生きる人たちは、「迷信」や「おまじない」や「ジンクス」や「しきたり」などを信じていて、そして、それを守ることを求められている、ということです。』と述べます。
 「神秘性」は、例えば、田舎に行けば行くほど、つまりは伝統的な「世間」が強力になればなるほど、守らなければいけない手順、踏み込んでいけない場所、などが増えていく、というようなことです。それがどんなに非生産的で不合理だと思っても、「昔からそういうやり方をしている」という一言で、その「しきたり」や「伝統」や「迷信」は守られるのです。
 論理的な根拠はないけれど、それが大切なことだと思えば「伝統」と呼ばれます。けれど、その「世間」からはみ出している人からすれば、まったく根拠を発見できませんから、それは「迷信」と呼ばれるのです。
《中略》
 そうすることで、「世間」は仲間と仲間でない人間を分けているのです。
 別な言い方をすれば、「世間」は、その「世間」に属していない人から見たら、じつに不合理なルールで動いていて、それは、その「世間」の中にいる人にしか理解されない、ということです。

 もっと深刻な例として、「犯罪を犯した子供の親が自殺すること」などを挙げて著者はこう述べます。
 それを「しようがない」と思う日本人はいても、欧米人に、堂々と、「子供が罪を犯したら、親は自殺するのが当然である」と説明できる日本人はいないと思います。
 「世間」が責めるから生きていけない、という言い方はできても、どうして「世間」が責めるのか、あなたは説明できるでしょうか。
《中略》
 罪を犯した子供の親を犯罪者と同じような目で見て責めたり、容疑者という言葉が犯罪者と同じ意味だと思い込んでしまう「世間」は、合理的なルールでは動いていないと言えます。合理的、論理的な筋道が通らない場合、それは、神秘的と言うしかないのです。
 犯罪を犯したから有罪なのではなく、有罪と思われたから有罪というのは、言ってみれば、現代人の思考方法ではなく、もっと昔の魔法や呪術が力を持っていた時代の思考方法と言えます。

 どうでしょう、「世間の神秘性」についてピンと来なかった人も、意外と身近に存在する、いや、ともすれば既に自分も支配されているものであると、ある程度イメージが付くのではないでしょうか。


【Judgement的視点】

 5つのルールのうち、「贈与互酬の関係」は「世間」の“メリット”であり、「長幼の序」は(不合理がまったく無いわけではないが)簡略的に運用可能な“合理性”であると思います。“共通の時間意識”は、煩わしいけれど名実共に集団化するには必要な“大黒柱”となるでしょう。

 そして、おそらく「世間」は境界線を求めているのだと思います。
 「来るものは拒まず」で、どんどん膨れ上がれば、そこに「秩序」は生まれません。
 だからこそ、境界線を設けて安定しようとするのでしょう。

 残りの2つは、その「世間」における境界線の役目をするものだと考えます。だからこそ「世間」においては必須の要件となるのでしょうが、これは「世間」外から見た場合、「非合理で、だからこそ恐ろしい所」でもあります。

 で、ここまでで思ったのは、「世間」というのは、弱者を守るためもの、と言うよりも、全員が弱者の立場で、弱者同士が身を守るための知恵なのではないかという事。
 強者が弱者を守る、という「ノブレス・オブリージュ(特権は、それを持たない人々への義務によって釣り合いが保たれる)」みたいなものではなく、調味料が底をつくのが日常的な者どうしが、互いの「貸し借り」をスムーズに行うために個人を捨て、集団として存在する、それが「日本的な世間」ではないだろうか。

 ...と言うと、小バカにしているように聞こえるかもしれないけれどそうじゃない。
 確かに個人は弱いものであり、そういう人間の性質を考慮した「合理的な知恵」であると思う。ある意味「原始的」な形態だけど、だからこそ「根源的」なものだと思えるのです。

 後で「セーフティネット」という言葉が出てきますが、おそらく、トンデモブラウさんやnaokoさんの望んでいるのは「世間」のそういう機能なんだろうな、と解釈しているんですがどうでしょう?
 だとすれば、私自身は「個人主義」に極めて近い考え方を持っていますが、他の人がそれを望む事自体については、否定する事はできないなぁ、と思うわけです。
 (ただし、それが今、実現可能かというのはおいておいて)


【世間と空気】
 
 さて、この本のもう一つのテーマである「空気」について、「世間のルール」を踏まえた上で、著者はこう述べています。
 整理すれば、「空気」とは「『世間』の五つのルールのうち、何かが欠けているか、揺らいでいると感じられるもの」ということになります。
 「世間」の何かが欠けてたり、「共通の時間意識」が不安定になっているものが「空気」なのです。
僕はそれを“流動化”と呼びました。
 何かが欠けている、揺らいでいる、という意味で、不完全とか不安定という言い方をしなかったのは、不完全・不安定という言葉には、「甘い」とか「足らない」「弱い」というニュアンスがあると感じるからです。
 「空気」は決して弱いものではありません。その瞬間の力は圧倒的です。構成の面から見て不完全・不安定と呼んでも、その持っている力は、「世間」と変わらない場合があります。
 なので、僕は形態として“流動化”していると考え、「空気」は「世間」が流動化したものである、と言おうとしているのです。
 ですから、「空気」は欠けているものがやがてそろって「世間」になることもあれば、「空気」のままで消えたり、変わっていく場合ももちろんあります。

 いわば、「空気」は「世間」を構築する前段階みたいなもののようです。
 結果として、「5つのルール」が揃わず霧散する事もあれば、揃って「世間」として固定化される事もあるようです。
 一時的に集まった“「社会」的集団”であっても、互いに無関心でいられない状況であれば、「世間」と似たようなものを作ろうとする、というのは、「世間」を前提としないと暮らしにくいと感じる日本人にとってある意味当然の欲求とも言えます。

 で、注目して欲しいのは「その瞬間の力は圧倒的」という所です。
 空気が支配する場において「空気読め」と言われる事は、世間が機能する場における「世間が許さないよ!」と同じくらいのパワーを持ち、あっという間にその場からはじき出され、差別される(差別的で排他的)、という事は実感としてあるでしょう。
 そのくらい「空気」の支配は強力なのです。
 
 そして、特に若者の間では、「世間」よりも「空気」の方が重要になっていると述べます。
 息子の就職先や娘の結婚に関して、田舎に住む両親は、「世間」の目にさらされて、切実に「世間」と付き合い、「世間」の中で生きていますが、子供たち、つまりは息子・娘は、まだ「世間」の存在をリアルには感じられないのです。
 それよりも、友だちとの会話で生まれる「空気」やバイト先で感じる「空気」の方が重要な問題になると思います。
 つまり、ダブルスタンダードを生きる日本人として、「社会」と、そして、「世間」の代わりの「空気」を毎日の生活の中で敏感に感じているはずです。

 ある意味、昔よりも環境の変化が激しい現代に生きる人達にとっては、各所にはそれぞれ固定的な「世間」が存在するとしても、自分が転々とする事で「自分の世間」という固定的なものではなく、自分にとっては流動する「空気」と同じ位置付けになるのではないかな。

 逆に、本来は「世間」があった所でも、構成員の入れ替わりが頻繁になる事で、固定的な「世間」が崩れ、流動的な「空気」に変化する、という事もあるでしょう。

 「世間」という安定した状態を作るには、構成員も安定していなければいけない。
 それが成り立たなくなりつつあるのも、「世間」崩壊の一因でしょう。
 その代用が「空気」なんだろう。
 

【絶対化に対抗する相対的な視点】

 そして、山本氏の「空気」研究の紹介です。
 山本氏による『流動性を期待する、あるいはそう言って一時的に矛先をかわすために「空気」を用いる』という論考も面白いのですが、それは端折って、「空気」に対抗する手段を考える部分を取り上げます。
 彼は太平洋戦争について、論理的には勝てないと分かっていたのに、「空気」に誰も反論できないため起こったと考え、「空気」に従っていると、国民全体が滅んでしまう場合だってある、という考えの上で、対策を考えます。
 じつはここでも、山本さんと阿部さんの使う言葉は似ているのです。
 阿部さんは、「世間」の原理を追究したのは、「世間」を相対化するためだとします。
 「世間」とは何か、「世間」とはどういうメカニズムで動いているのか、「世間」の本質とは何か、それを追究することは、「世間」を相対化することです。
 つまりは、「世間」を絶対的なものとしないで、相手の正体を見極めていくことです。
 そうすることで、ただ、単純に「世間」に振り回されることを避けようというのです
。  そして、山本さんも、「われわれはここでまず、決定的相対化の世界、すべてを対立概念で把握する世界の基本的行き方を調べて、“空気支配”から脱却すべきではないのか。ではどうすればよいか、それにはまず最初に空気を対立概念で把握する“空気の相対化”が要請されるはずである」と書きます。
 どんなに絶対的だと思われることも、相対的な視点で理解すべきだというのです。

 このあたりが、「世間さまが許さない!」のあとがきにある「価値的相対主義」的観点と共通するものであり、その意義ではないかと思います。
 面白いのは、素人目には「絶対的な価値観」を要求するかに見える宗教は、むしろこのような相対化の手助けになるという所です。
 「すべてを対立概念で把握する世界の基本的行き方を調べて」と山本さんは書きます。それは、一神教による世界、この場合は、キリスト教やユダヤ教の世界のことです。
 一神教では、神の言葉だけが絶対で、それ以外は相対化されます。

 神こそが絶対だからこそ、むしろ人間に絶対を求めてはいけない、という事か。
 単一の神を持つ民族が、神以外の価値を相対化して捉えられる一方で、八百万の神様を持つ日本人は、神以外の価値を絶対化する、というのはなかなか面白い。
 アメリカから「ディベート」という方式が日本に入った時、多くの日本人は衝撃を受けました。それは、相対化の見事な見本だったからです。
 「中学生は携帯電話を持っていいか?」というテーマなら、まず「持っていい」という視点で主張し、時間が来たら立場を変えて、「持ってはいけない」という視点で主張する。
 自分の意見を、百八十度変えて、議論するというシステムは、日本にないものでした
。  日本人は、集団の決定が、まさに「臨在感的把握」によって絶対化することに慣れていたので、同じ人間がどちらの立場も積極的に主張するということに、なにか戸惑いを覚えたのです。
《中略》
 あらかじめ言っておきますが、こうやって相対化できるからアメリカ人の方が成熟している、なんていう言い方を信じてはいけません。
 彼らは、神のこと以外は、すべて、相対化の視点で語ることができるのです。
 神だけが絶対である、すなわち、「人が口にする命題はすべて、対立概念で把握できるし・把握しなければならない」ということが一神教に生きる人たちの命題になるのです。
 けれど、神のことに関しては、まったく相対化できません。この話は後述しますが、だからこそ、キリスト教福音派の信者は、神の教えに背いたと、合法的に中絶手術をする医者を射殺するのです。
《中略》
 たとえば義なる神が存在するなら「正義は必ず勝つ」という命題がある。この命題は相対化できそうもないが、しかし彼ら(一神教を信じる人たち鴻上注)は言う、「では、敗れた者はみな不義なのか。敗者が不義で勝者が義なら、権力者はみな正義なのか」と。
 「正しい者は必ず報われる」という。「では」と彼らは言う、「報われなかった者はみな不正をした者なのか」と。(中略)「正直者がバカを見ない世界であってほしい」「とんでもない、そんな世界が来たら、その世界ではバカを見た人間は全部不正直だということになってしまう」
 こうしてすべてを対立概念で理解すれば「ひとつの空気」が絶対的な意味で生まれることはないだろうというのです。

 本当に一神教を信じる人たちが引用の最後のような受け答えをするかは私は分からないけれど、「全知全能の神」を前提すると、「人間の考え」を絶対的に捉える事のほうが神に対する不敬になるんではないのかな、と思う。
 そしてそれは、自然の偉大さを理解するまっとうな科学者が「科学の限界」を意識するのに似ている。

 相対化の極みである「ディベート」は、弁舌の技術と受け取られる事もあり、確かにその側面もある。しかし、それは「相対化が普通にできる」事を前提とした話。
 日本人が「ディベート」を取り入れるのであれば、まず「どこまで冷徹に相対化できるか」に力点を置かなくてはならないでしょう。そこが一番肝心で、一番苦手な所なのですから。

 でも、苦手な所をないがしろにしたまま、ディベートの形だけを取り入れ、表層的な言葉でそれを押し切ろうとすると、どうしても詭弁スレスレ、あるいは詭弁そのものになる。そうなった「エセディベート」が日本では珍しくないから、舌先“だけ”の技術のように捉えられている気がします。
 それが嫌悪感を持たれる理由のひとつではあるでしょう。

 ただし、「殆どのものにはメリットとデメリットがある」というのは『理屈』ではなくて『現実』なわけで、双方を公平に見比べた上で選択するには「相対化」が必須。
 それをするにはディベートは効果的なレッスンになると思う(とはいえ、同じ認識の人相手でないと、単なる屁理屈合戦になるからダメだけど)。

 「競技」ではなく、「現実」では、相対化した上で「リスクを背負い、チャンスを得る」か、「チャンスを逃し、リスクを避ける」かを“自分で”判断するわけ。

 しかし、日本人はその判断が苦手な人が多いんだろう。
 だから、判断を「世間」や「空気」に委ね、チャンスを求める雰囲気ならそれに賛同し、リスクを過小に、チャンスを過大に評価して自分を納得させる。一方でリスクが危惧されているようなら、その逆。
 そうする事で“判断のプレッシャー”から逃れようとする。

 だけど、相対化できる人達が皆“判断のプレッシャー”に耐えうるほど「強い人間」であるかと言えば、そうではないと思う。
 おそらく、一神教に生きる人は、その責任は神が背負ってくれる。神の言葉に従う限り、それ以外の事で判断を間違っても、神は平等に受け入れてくれるわけだ。

 不敬な言い方になるかもしれないけど、一神教に生きる人は莫大な資金を持つ神を後ろ盾にして、現世というカジノでギャンブルをやっているようなもの。
 一方、そのような後ろ盾を持たない多くの日本人は、少ない身銭を切るしかないわけです。でも、いくら考えても、確実な予測はできないから、不安で不安で仕方がない。だからこそ、“自分で判断する事”よりも“不安を他者と共有できる事”の方が大事に思えるのではないでしょうか。


【多数決を台無しにする「空気」】

 この「空気」は“多数決”という民主主義的な手続きすら形骸化させていると著者は語ります。この辺も「世間さまが許さない!」の内容に通じるところがあります。
 ちょっと寄り道なのですが、山本さんが多数決原理に関して説明している文章が感動的です。

 多数決原理の基本は、人間それ自体を対立概念で把握し、各人のうちなる対立という「質」を、「数」という量にして表現するという決定方法にすぎない。日本には「多数が正しいとはいえない」などという言葉があるが、この言葉自体が、多数決原理への無知から来たものであろう。正否の明言できること、たとえば論証とか証明とかは、元来、多数決原理の対象ではなく、多数決は相対化された命題の決定にだけ使える方法だからである。

 日本人は、つい、「世間」のルールでいうところの「神秘性」を対象に見出す傾向があり、それは同時に、「空気」が生まれるメカニズムでいう「対象の臨在感的把握」ということで、「多数決原理」というものを、なにか、万能のシステムのような、宗教的正しさをもったものとして見てしまう傾向があるのです。
 その結果、反動として「多数が正しいとはいえない」という言葉が出てしまうのですが、山本さんは、多数決原理とは、そもそも、人間の内部の意見の対立を、相対化して、数として表現するだけのものだというのです。
 なおかつ、日本人は、そんな多数決原理さえ、人々の真意を表すようには使ってないと、山本さんは書きます。
 会議であることが決定して、散会した後、各人は飲み屋などに行き、そして、「職場の空気」がなくなって、「飲み屋の空気」になった途端、「あの場の空気では、ああ言わざるを得なかったのだが、あの決定はちょっとネ・・・」といったことが「飲み屋の空気」で言われることになり、そこで出る結論はまったく別のものになる、ということです。
 
 ああ、あるある、と思う人は少なくないでしょう。
 実はもう決まっているようなものなのに、形だけ民主主義の体を装い「多数決」を取る。、決に参加する側もその“空気”を裏切らないよう、賛成票を入れてみせる。
 うっかり正直に「自分の判断」で反対票を入れようものなら、顰蹙を買いうのですね。
 そういう「多数決」というのは、「多数が決になる」のではなく、「決に多数票を入れろ」という圧力でしかないんだな。

 トンデモブラウさんが「声の大きい者が勝つ」なんてのは、それもやっぱり対話を圧殺する「世間」的な場の話だと思うよ。
 「声の大きさ」に左右されるなんてのは、結局「自分で判断」してるわけじゃなくて「力関係」とかそういう“場”に縛られているだけだからね。

 本当の多数決ができるなら、どんなに声が大きくても1票でしかない。もしもっと票を獲得したいのであれば、「対話」により他人を納得させる力が必要、って事にならないかな。
 そしてそれは、声が出せないシャイな「弱者」にとっても、大きなメリットだと思うよ。

 というと、次は『どうしても「声の大きさ」に左右される弱者がいる』という、いわゆる「愚民」的な話になるかもしれないけれど、そのような「愚民」を育て上げたのもやっぱり「世間」なんだよね。
 「愚民がいるからどうしよう」っていう話ならば付き合ってもいいケド、「愚民がいるからどうしようもない」という話はしてもしょうがない。


【議論を拒否する「空気」】

 「空気」は絶望的な事に、多数決のみならず、議論すら拒絶します。
 山本氏は太平洋戦争を挙げ『「敵」という言葉が絶対化されると、その「敵」に支配されて、終始相手にふりまわされているだけで、相手と自分とを自らのうちに対立概念として把握して、相手と自分の双方から自由な位置に立って解決を図るということができなくなって、結局は、一億玉砕という発想になる。』と述べているようです。
 それについて著者もこう述べます。
 相手を批判するうちに、批判する言葉が絶対的なものになってしまって、批判していた本人自身がにっちもさっちも動けなくなる、という状況が日本では普通の光景だということです。
 日照権を巡るマンション訴訟も、隣人との土地の境界線訴訟も、企業に対するクレームも、戦いそのものが絶対化してしまい、戦わなければいけないという「空気」に支配されて、相手との交渉が自分自身できなくなる、という現状です。自分自身が自分で作り上げた「空気」に支配されて、がんじがらめになって動けなくなる、ということです。
 そして、結果は、相手に対する100%の勝利か0%の負けかという、相手を殺すか自分が死ぬか、という絶対的な選択しかないと思い込んでしまうのです。

 絶対化に陥ると、もうそこには「立場の死守」しか残らず、「相手と対話する」余裕はどこにも無くなります。立場を死守するためには、どのような汚い手でも当然のように使いますし、いよいよ危ういとなると、憮然と席を立つという事も平然とやらかすでしょう。

 おそらく本来のディベートというのは、例えば肯定側に立った時、「肯定的な情報ばかりを提示し、あたかも完全に正しいかのように言う」ならば、最低点でしょう。そんなわけ無いんですから。
 肯定側で大切なのは、否定側の視点で出てくるであろう否定的な根拠を潰す、あるいは否定的な部分を正しく認めた上でそれを上回るメリットを提示する事なんです。
 相対的に掘り下げれば掘り下げる程、肯定と否定の差は小さくなり、掘り下げる度に結論は逆になる。言うなれば、肯定側として勝つためには、否定側以上に否定的な情報を知っていなくてはならないんですね。
 で、そこで目指すのは51%の勝利であり、そういう認識ができるからこそ「無茶な主張」というのはできなくなる。
 
 逆に言えば、「空気」に支配されていると、否定的な事なんて考えるのすら憚られる、ましてや口に出そうものならどんな目に合うか分からない...。
 ...と言っても、それは、その場にいる人が実際にそのような偏狭な人達ばかりだという意味ではない(とはいえ、意図的にそのような空気を強める偏狭な人も中にはいるだろうけど)。
 「空気の中ではそういう前提で振舞うべき」と言う事が、空気を求める人の体に染みついているから、そう思えてしまうのだ。

 だから、相手から否定的な事を言われても、それを正しく受け止める事はできない。正確に言えば、例え受け止めたくても「空気」が許さない(ように思える)。
 そうなると一切無視するか、あるいは自分が空気の一員である事をアピールするために、同じ空気の中にいる人が喜びそうな形(極端な矮小化、あるいは「本質的ではない」という断定)に変換して見せるのが関の山。対立する相手を(自分の品位が下がらないと思える程度に)遠回しに見下してみせて、空気の一員である事のダメ押しをする。

 著者は、屋内禁煙条例に関して、公聴会で分煙派と禁煙派の討論が映されていたそうです。その際、分煙を主張する旅館の経営者が、「旅館の自分の部屋の中では、泊まり客は吸えるようにしてほしい」と壇上で語った瞬間、客席から、女性の「人殺し!」という声が飛んだ事について、それはあんまりだと思う上でこう言います。
 ここには、議論しようという姿勢はありません。相手を完全につぶす、という思いだけです。そして、最も怖いなあと思ったのは、「人殺し!」と会場から声が出ても、他の参加者はなんの反応もしなかったことです。「人殺し!」というものすごい言葉が、なんの抵抗もなく受け入れられている現状に衝撃を受けたのです。
《中略》
 おそらく「人殺し!」と叫んだ女性は、普段から、喫煙者の行動に怒り続けているはずです。
《中略》
 けれど、どんなにひどい目に遭っていたとしても、自分の意見を演壇で話している人に向かって、「人殺し!」と叫ぶことは許されることではありません。
 そこには、なんの相対化もありません。自分の感情に対しても、相手を説得しようとする理論に対してもです。
 日本が銃社会なら、「人殺し!」と叫ぶことと、演壇に向かって銃が撃たれることは、地続きでしょう。銃は「空気」の圧倒的支配のもと、あっという間に、発射されるはずです。そして、みんな、「今どき、タバコを擁護するんだから、殺されてもしかたがない空気だよね」と、普通の顔をして言うのです。

  「人殺し!」と叫ぶ事と、銃で撃つ事を繋げるなんて飛躍だ、と思う方もいるかもしれませんが、私は十分あり得る話であると思います。
 
  「空気」あるいは「世間」を盾にする事で「赤の他人を人殺し呼ばわり」できてしまう人にとって、「世間」とは「モラル」や「他人の人格」をあっさり乗り越えられるものなんです。
 そして、「世間さまが許さない!」を紐解けば、日本の「世間」は「法」よりも強い側面があります。だとすれば、「世間」に押される事で、「法の意識」を乗り越えて引き金が引かれたとしても、何の不思議もありません。
 
 何より怖いのは、その「空気」を許容する人々、言葉を変えればその「空気」を流している人々の存在です。
 彼らの多くは、直接的な事はしません。ただ、空気の中にそっと銃を放置し、ターゲットへの道をさりげなく空け、そして「ああいう人は殺されても仕方がないよな」と独り言をつぶやくだけです。

 でも、狡猾に見える彼らも、ある日ふと落ちていた銃を拾ってしまい、その瞬間誰かが「ああいう人は殺されても仕方がないよな」とつぶやく時が来るかもしれないのです。

 その時になってそれを拒絶しようとしても、もう遅い。
 「空気」の支配は、議論を拒否するのです。それが自分にとって都合がいいと思っていても、必ず、都合の悪い「空気」が支配的になる時が来ます。どんなに怒っていても、議論を放棄して「空気」の支配に身を任せてはまずいのです。いつかきっと、強烈なしっぺ返しが来るのですから。



【空気に水を差す】

 「空気に抗う方法」として、山本氏は「水を差す」事を挙げています。
 「水を差す」というのは、場がひとつの「空気」で固まり、その方向に進もうとする時、その支配を打ち破る行為です。
 と、難しそうに書いていますが、単純な例では、誰かが旅行に行こうと言い出し、グループ全体が旅行に行くのが当然となった時に、「でも、お金がないんだよね」と二言、言う行為が「水を差す」ということです。
《中略》
 問題は、臨機応変に、なんと「水を差す」か、ということです。
 つまりこれは、「裸の王様作戦」ということです。
 王様の着ている服はバカには見えないんだという圧倒的な「空気」の支配によって、王様は裸と言えない、自分だけが見えないとは言えない。
 そんな時、子供が「王様は裸だ!」と「水を差す」。
 なんと劇的な「水の差し」方でしょう。その瞬間、「空気」は一気に消え去るのです。
 けれど、この話は、子供が叫んだから成立したとも考えられます。子供の無邪気な声で叫ぶからこそ、大人たちはハッとして、バカだと思われないように黙っていた自分を恥じるのです。

 奇しくも当ブログのタイトルと重なるけど、実は当ブログの目的もそこにあったりします。
 とはいえ、どうやらその作戦は「子供の無邪気な声」だから効果があるようで、「すれた大人の邪気に満ちあふれた声」では、上手く「水を差せない」もよう。
 この時、大人が「王様は裸だ!」と叫んだとしたら、どうでしょう。
 この場合は、その時の「空気」の強さによるでしょう。
《中略》
 王様自身が、透明な服のことを疑い、不安そうな顔をして、そして、取り巻きの人たちもどこか困惑した雰囲気がある時は、大人の「王様は裸だ!」の一言が、不安定な「空気」に「水を差す」ことができるでしょう。
 けれど、王様の作り出す「世間」が強力で、そして、裸の王様の顔も自信に満ち、強力な「空気」が漂っている時は、「王様は裸だ!」と叫んだ大人は侮辱罪か反逆罪で死刑になるかもしれません。「空気」はまったく揺るがないからです。
 物語の場合は、子供という権威と無関係な存在が叫んだからこそ、王様と大人たちが作った「空気」に「水を差す」ことができたのです。
 ある集団が、圧倒的な「空気」支配のもと、批判を許さない絶対的な方向に走り出しそうな時、効果的に「水を差す」ことができたら。
《中略》
 ともあれ、「裸の王様作戦」は、「空気」が不安定な時は、有効だと感じます

 なるほど...だからケンカ別れみたいなのばっかりで、上手くいかないんだね。
 かといって、今更「無邪気な子供」を装ってもなぁ...


【「空気」の世界は理屈のない世界】

 あと、naokoさんが以前MORIXさんとしていた話に関係あるような気がする話があったので引用しておきます(そんなに関係ないカモ)。
 「空気」に対する有効で確実な対抗法があるのなら、日本社会はもっと変わっていたでしょう。軍のインテリたちが、戦う前から必ず負けるとあらゆるデータから分析していた太平洋戦争にも突入しなかったはずです。
 けれど、日本社会は、理屈ではない「空気」を選んだ。山本さんが繰り返し、「空気」を問題にするのは、自分も従軍して苦しんだ太平洋戦争の記憶があるからだと思います。
 あらゆるデータを駆使して、いかに無謀な作戦かを主張しても、その議論とは関係のないところで、「そういう空気だから」と言われては、明日から何を根拠に生きていけばいいのか分からなくなります。
 それは、呪術と霊魂が支配する、スピリチュアルの世界です。そこでは議論がムダで、会話がムダで、理論的追究がムダです。
 そんな世界は、命令する側はまだ堪えられても、命令され生死をかける側はたまったもんじゃないでしょう。

  「太平洋戦争」が出てくると、また色んな事を言い出す人もいるでしょうが、私は「ある程度それらしい意義や目的」なんてのは偉い人が考えていた事であって、その下、命令される側にとっては、このように「空気」の圧力にただ従う、という非常に悲しい状況であったと私は思います。

 
【中途半端に壊れている「世間」】
 「空気」とは、「世間」が流動化したものだ、という考え方に立てば、次の疑問「どうして、ここ数年、『空気を読め』という言葉が定着したのか?」や「どうして『世間』という言葉より、『空気』という言葉が多用されるようになったのか」ということも見えてきます。
 そのことを考えるために、まず、「『世間』は中途半端に壊れていて、そして、この数年でさらに激しく壊れている」ということを確認したいと思います。

 著者は「最近、あんた、評判悪いよ」と言われ、「誰がそんなこと言ってるんだよ」と聞き返した時に、「みんな言ってるよ」と答える状況を例に挙げてこう考察します。

 それが、「世間」がちゃんと機能していた時代は、本当に「みんな」が言うことと同じ。つまり「世間」から村八分になるという絶望的な状態である事を示します。
 一方で、「世間」が完全に力を失っていれば、まず「みんな」が言うことが同じはずがないから「みんな?みんなが言うわけないだろ、バカな事言うな」と鼻で笑って終わりです。

 でも、現状はどうかというと「100%のみんな」はあり得ないにしても、「7~8割はいそう」とは思えます。だから、「もうダメだ!」という絶望的な気持ちにはなりませんが、けれど、ズキリとはする。
 それが、著者の言う「世間は中途半端に壊れている」状態としています。
 ちなみに、「みんな言ってるよ」と言われて、あなたがどれぐらいずきりとするかで、あなたがどれほど安定した「世間」に住んでいるかが分かります。
 この本を読んでいるあなたが、山奥の小さな集落に住んでいたり、少人数で特殊な職業の集団で働いていたり、ものすごく狭い人脈の中で生活していたりしたら、「みんな言ってるよ」という言葉は、かなりの衝撃に感じるでしょう。クラスの中でいじめられていたりしても、やはり、ずきりとくるでしょう。
 頭で考えれば、とてもおかしいことなんだけれど、「みんな」という言葉は胸を刺す。
 ちくりぐらいで終わる場合は、あなたは、かなり壊れかけた「世間」に住んでいるということなのです。

 私は、自己の正当化で「みんな」、「普通は」、「一般的には」を使うなと色々指摘してきました。
 それはそんなもの、実際の「みんな」ではなく、その人に都合の良い人の集合体を「みんな」と呼んでいるにすぎないと思うからです。

 その上でこの話を読むと、私は“非常に壊れた「世間」”に住んでいるのかな、と思う一方で、「みんな」という表現に正当化の根拠を求める人はその表現が適切と思えるほど“非常に安定した「世間」”に住んでいるのかもしれない、と考えたりします。

 正直、「私達は」、「みんなは」と、主語を複数形にするような口ぶりの人の話は色々とイラつきます。
 その人の「世間」なんて知らないし、肝心のところを「世間」の内側に隠してぼやかしてしまうから。
 
 そんな私だからこそ、「私は」と、主語を単数形の自分にするような話は好きですし、興味がありますし、信用できます。


【「世間」とは利害関係のある人々の全体】

 では、何故世間が崩壊しているのか、という話題も色々腑に落ちるのですが、そのあたりは割愛して、もう一度「世間」を確認する部分を紹介しておきます。
 ここで、もう一度、阿部さんの「世間」の定義を確認します。

 「世間」という言葉は自分と利害関係のある人々と将来利害関係をもつであろう人々の全体の総称なのである。具体的な例をあげれば政党の派閥、大学などの同窓会、花やお茶、スポーツなどの趣味の会などであり、大学の学部や会社内部の人脈なども含まれる。近所付き合いなどを含めれば「世間」は極めて多様な範囲にわたっているが、基本的には同質な人間からなり、外国人を含まず、排他的で差別的な性格をもっている。
 (前掲『「世間」への旅』)

 「世間」はまずは経済的なセイフティー・ネットとして機能していました。
 阿部さんの定義、「『世間』という言葉は自分と利害関係のある人々と将来利害関係をもつであろう人々の全体の総称なのである」という言葉がまさにそれです。
 「世間」を、万葉の昔から自分の想いに制約を課すものと感じても、それに従っている限りは、経済的に安定することができたのです。だからこそ、人々は「世間」に従ったのです。けれど、地域共同体社会が濃密に機能しなくなったことで、「世間」は、経済的セイフティー・ネットではなくなったのです。

 ここでいう「世間」というものは、部外者としての私にとっては“うっとうしく映った”ものであったとしても、その内部の人にとってはデメリット以上のメリットがあったものと、私は考えてはいます。
 上でも言いましたが、その復権を望む気持ちも別におかしな事ではないと思います。

 ただ、「世間」が嫌いだから言うわけでないのだけど、「そのような世間」は、崩壊しつつあり、しかその崩壊はメリットの喪失から始まり、現状としてはデメリットばかりが残されていると私は感じます。
 経済的な共通項、つまりはっきりとした利害関係がなくなれば、集団として動く意味はありません。そして、地域共同体という「世間」はゆるやかに崩れ始めたのです。
 「世間」を気にする、という習慣と記憶は、もちろんまだ残っています。崩壊の速度と程度が遅い田舎に行けぱ行くほど、強烈に残っています。がんじがらめに縛られている人もいるでしよう。
 けれど、「世間」が最終責任を取ってくれない事だけは、はっきりしています。
 もう、かつての村落共同体のような完全な「世間」など、どこにもないのですから。

 それは、実のところ「世間」の復権を望む人こそ分かっている事であり、だからこそ、懐古するしかないのかなぁ、と思ってみたり。
 
 でも、もし戻れるならその時点に戻りたいでしょうか。
 財産がギリギリで、転職や移住、日々の移動も制限され、それ故に触れ合う人同士が互いに支え合い、いたわり合う「世間」を認め合っていた過去に。

 「世間」の崩壊は、「世間さまが許さない!」の作者の視点を借りれば、自分達に合わない民主主義を受け入れてしまった事がきっかけかもしれません。

 最初から「自由」なんて選択肢が無ければ、「不自由」という前提の中でより理想的な環境を目指します。それが元々の「世間」であり「所与性」の実際であると私は思います。
  「世間」が与えてくれる“自由のようなもの”は、あくまで「世間」から一歩も踏み出す事が無い事が条件であり、それもめんどうくさい根回しをした上で、仕方なくそうしているようなフリをして見せなければ、許されないものです。

 しかし、民主主義の導入により、本物の「自由」という選択肢が示されてしまった。
 モチロン、実際は「自由・不自由」という単純な問題ではなく、「リスキーな自由」と「安定した不自由」という究極の選択的なものではありますが。

 「リスキーな自由」を選択する人が出る度に構成員を失い「世間」は崩れます。そして、「世間」は一旦「リスキーな自由」を選択して出て行った人を再び受け入れるのを拒みがちです。
 だから、この「選択肢」の存在は、「世間」が崩壊する方向にのみ作用するのでしょう。


【抑圧としての「世間」にうんざりする人々】

 世間の崩壊の理由として、もう一つ引用しておきます。
 じつは僕は、「世間」に対して、こうやって「自分がいかに苦労しているか」という身振りをすることに、日本人はうんざりし始めているんじゃないかと思っているのです。
 何かを渡す時の「つまらないものですが」という言い方がおかしいんじゃないかと多くの日本人は思い始めています。「お口に合えばいいんですが」や「気に入ってもらえると嬉しいんですが」を使う人が増えてきました。
 過剰に「世間」に怯え、へりくだり、謙虚を演じることにうんざりしている人が増えていると思っているのです。

 私は、お土産を持って行った時に「悪いわぁ。いただけないわ」と遠慮されるのにうんざりしている。
 だって、「その人のために」買っていったのだから、遠慮されても持ち帰るわけにはいかないじゃないか!
 だから、付き合いが長くなる人には
 「あなたにあげるために持ってきたのだから、本当にいらないならともなく、そうじゃないなら遠慮して見せるよりも、素直に受け取ってくれる方が私はずっと嬉しい」
 と言っています。

 まぁ、相手はよかれと「世間のしきたり」に従っているんだから、そこで文句を言って「私ルール」を押し付けるのも悪いとは思うんだけどね。
 でも、そういう礼儀は「世間」に対する礼儀であって、「私」に対する礼儀じゃないから、私としては煩わしいだけ。


【世間とプロテスタントの親和性】
 
 私は宗教の事をあまり知らないけれど、キリスト教にも福音派という宗派があるようで、著者はこう説明しています。
 プロテスタントのリベラル派の人たちは、聖書の社会的・文化的文脈を探ります。あの当時言われたことは、じつは現代ではどういう意味になるのか、この言葉は本当は何を意味しているのか...これはじつは、インテリの作業なのです。つまりは、ある選ばれた人たちの作業なのです。
 それは、貧しく、高等教育を受ける機会がなかった人たちには、できないことです。彼らにとって、聖書の文脈の意味を探ろうとすることは、逆に聖書を遠ざけることでしかないのです。
 ですから、知識がない人たちが簡単に参加できることが、彼らの宗教の絶対の要請なのです。
 それが、聖書に書かれたことはすべて真実である、とする信仰なのです。

 あの「ID理論」を唱えている一派ですかね?
 で、この福音派と同じ構図のアプローチを「共同体の匂い=空気」だけでは自分を支えきれない、激しく不安な日本人たちは「世間」に対して行うと述べます。
 不安であれぱあるほど、「世間」の原理に戻り、強力な「世間」を作り上げようとするのです。福音派の人たちと同じように、極めて分かりやすい、誰もが発言できる「世間」を選ぶのです。
 それは、「世間」の一番伝統的で原理的なもの、「古き良き日本」という「世間」です。
 ネット右翼と呼ばれる、極めて保守的な人たちがウェブ上で主張する理想――古き良き日本は、まさに、この伝統的な「世間」だと僕は思っています。
《中略》
 彼らが守ろうとしているのは、「古き良き日本」です。「社会」などという西洋から来た概念に侵食されない、五つのルールが強力に働く、伝統的な日本の「世間」です。
 ですから、僕はネット上で反日だと激しく誰かを攻撃し、時にはブログを炎上させている彼らは、「ネット右翼・右翼主義者」ではなく「保守主義者」、もっと厳密に定義すれば、「世間原理主義者」だと思っています。「世問」の原理に帰ろうとする人たちです。
《中略》
 日本の「世間原理主義者」たちは、一見、右翼的に見える時もありますが、彼らは、「天皇中心の日本」を創り上げようとしているのではなく、「伝統的で温かい日本」「ひとつの家族だった日本」に戻ろうとしているのです。

 「伝統的で温かい日本」なんて出てきましたが、「世間原理主義者」にトンデモブラウさんをオーバーラップさせて貶めよう、という意図はありません。
 「世間として振舞う」事と「個人として世間を語る」のはまるで違います。

 ここで問題にしたいのは、「古き良き日本」にあこがれる事、ではなく、それを実現するために強力な「世間」を無理にでも作り上げようとし、「世間のルール」を押し付け、従わない者はつぶすのも厭わない、そういう態度です。


【「世間」を感じるために他者を攻撃する】
 ネット上では、正論・原理を語る人たちがたくさんいます。
 「お酒を飲んで運転した」と書いたブログやmixiの日記を、「飲酒運転」という単語をグーグルで検索することで執拗に見つけ出し、場合によっては個人名までさらして攻撃する人のことが話題になりました。バイト先の客の悪口を書いたブログを見つけ出し、「2ちゃんねる」に紹介して、そのまま、炎上させる、なんてことも頻繁に起こっています。
 コミケのバイトに行って、「オタク、オタク、オタクだらけ!」と書いた女性のブログはあっという間に炎上し、彼女が通っている大学名や個人名から住所まで、ネット上にさらされました。彼女が撮った彼女自身のスナップ写真は、ネットのあちこちにばらまかれました。
 そして、「客をオタクとバカにしたのだから、これは当然のことである」とネット上には書かれたのです。
 「飲酒運転」も個人名をさらされ、「法律違反をしたことを、自慢気に語っているのだから、人間のクズ以下。実名をさらされるのは当然である」と書かれました。
 それは、悪いことを悪いと原理的に追及する原理主義者の主張です

 やっている当人は「それほど酷い事をしている」とは思っておらず、むしろ「正しい事」をしていると思っているでしょう。

 昔、某大学の準教授のある事件に対する発言を発端した騒ぎを記事に書いた
 念のため言えば、私はその準教授の発言に賛同はしない(どちらかといえば彼女は個人的には嫌いな人間の部類に入ると思う)。そんな私が見ても、その騒ぎ方は「正常な人間」のやる事とは思えなかった。
(そしてその頃から、「ニセ科学批判」に見え隠れする何かが、鼻につきはじめ、そのほぼ一年後に決別した)

 引用は短くするつもりだったけど、以下の文章は色々な含蓄が含まれているので出来る限り引用したいと思います。
 くどいようですが、これは「良き日本情緒」を求めるトンデモブラウさんへのあてつけではありません。もっと「原理主義者」的な人達を考えたいがために取り上げるのです。
 不況は、「世間」を強烈に意識させます。村落共同体社会においても、会社という「世間」においても、経済的に潤っている時、利益が多い時は、「世間」の捉は厳しくは人を縛りません。
《中略》
 そして、不況の時代には、今まで考えられていた「世間」が、人を救う力などないんだという現実まであらわになるのです。
 けれど、人は、支えてくれるものを求めます。苦しくなれぱなるほど、支えてくれるものを求めます。
 あなたは何で自分を支えようとしていますか?
 「世間原理主義者」になって、強い「世間」を復活させ、それによって自分を支えるという方法ももちろんあります。
 否定的なことをずっと書いてきましたが、もちろん、この道を選ぶ人もいます。
 「世間」にもっと強くなって欲しいと願う人たちです。強い宗教を求めて福音派が生まれたように、「世問」に強さを求める人たちも当然、現れます。
 伝統的な「世間」、会社や地域共同体は、かつて、「共存共栄」「平等分配」「互助精神」「助け合い」「お互いさま」などという言葉で表現できる形で人々を支えていました。
 確かにそこには、喜びと快適さがあったのです。
 「その夢よ、もう一度」と願うのは、無理もないこととも言えます。
 ただし、伝統的な「世間」を現実の空間で、いきなり復活させるのは難しいでしょう。
 多くは、まずネット上での主張として展開されます。
 彼らは、「古き良き日本」に帰ろうと、伝統的な日本の素晴らしさや日本人が失ってしまったかけがえのない「世間」を語り続けます。そして、反日的な言動を見つければ大挙して押し寄せ、道徳心と正義感に燃えて、ブログを炎上させます。
 彼ら「世間原理主義者」とブログの炎上が、しばしばワンセットで語られるのは、彼らが好戦的だからではなく、そうすることが彼らの存在意義だからです。
 彼らは、伝統的な「世間」の良さを語るだけでは、精神的な満足は得られないのです。
 伝統的な「世間」を感じるためには、他者を攻撃する必要があるのです。
 なぜなら、「世間原理主義者」がネット上で作り上げている「世間」は、実体を持った「世間」ではないからです。
 阿部さんの定義である「自分と利害関係のある人々と将来利害関係をもつであろう人々」ではありません。
 ただ、自分を支えて欲しいと意識的に作り上げられた「世間」なのです。村落共同体の構成員が生き延びるために、経済的な要請で自然に生まれた「世間」とは違うのです。
 意識的に作られた「世間」では、常に自分がその「世間」に属していると確認しなければなりません。もちろん、「世間」は本来、「所与性」のものであって、自分がその「世間」に属しているかどうかを証明しようとすることは、本末転倒です。
 そんな転倒した「世間」に所属していることを証明する一番確実な方法は、その「世間」を否定するようなことを言っている人を攻撃することです。
 常に「反日」的な書き込みに反応し、伝統的な「世間」を否定する人たちを攻撃することによってのみ、「世間原理主義者」は自分が日本の伝統的な「世間」に所属しているという〃幻の"満足を得ることができるのです。そして、そうすることで、とりあえずの安心と連帯、安らぎを得るのです。けれど、それは実体のない「世間」ですから、常に自分がその枠組みの中にいると確認し続ける必要があるのです。そのためには、終わりのない追及と炎上が不可欠なのです。
《中略》
 そうすることで、いつか、現実の世界にも「古き良き日本」が出現すると、「世間原理主義者」は信じている、はずです。
 僕が大変だなあと思うのは、ネット上の「世間」を実感するためには、「世間原理主義者」の人は、永遠に「攻撃の対象」を探し続けないといけないことです。そして、もうひとつ、自分にも分からない理由で、「伝統的な日本を破壊する側」に立たされるかもしれない、という不安を実感するだろうということです。
 伝統的な「世間」は、キリスト教の聖書のような「書かれた聖典」を持ちません。『贖罪規定書』のような、罪の一覧表もありません。ただ、それぞれの頭の中に、「古き良き日本」があるだけです。ですから、いつ、「それは、古き良き日本に反する」という突っ込みがくるか分からないのです。
《中略》
 「古き良き日本」はイメージであり、一般の人々はもちろん、学者の解釈も多様なのです。
 そういうものを原理的に守ろうというのは、かなり難しいだろうなあと、僕はいつも思うのです。

 これは私の考えなんだけど、「古き良き日本」を求めるというのはほんの一例で、それだけではなく、別の理由で集う“ネット上の「世間」を実感したい人”達も「世間原理主義者」も同じ事をするのではないでしょうか。

 見ず知らずの人が集まって、あれこれ話す。
 そこでは「空気」が生まれますが、空気を読まない人や水を差す人のせいで、霧散する事も往々にしてあるでしょう。
 しかし、ある程度「空気が読める」人達が集まっていると、だんだんと形が定まり、そこに(ネットの片隅の)「世間」が出来上がる事がある。その「世間」は非常に楽なんですね。
 足りないところがあれば、誰かが優しく補ってくれ、自分が誰かを補う事ができれば感謝される。「互いに補い合い、互いに認め合う」それはある意味望ましい「世間」だ。
 その世間では、傷つけ合う事なく、何を言っても優しく受け入れられる。
 ただし、「世間」が求める目標や結論を否定しない、という制約は守らなくてはいけない。

 その代わり、自分の「世間」を否定するような外部の者には容赦ありません。
 大抵はそれに対する攻撃はひとりでは行いません(おそらく、ぬるま湯に浸かって満足するような人は、ひとりで何とか出来る能力も持っていません)。様々な加勢が付きます。
 それは誰かに指図されたわけでも、示し合わせたわけでもありません。それには「相互扶助」の側面もあるかもしれないですが、何よりもひとりひとりが「自分達の世間」を守るために駆けつけるのです。


【「社会」に向かって書くということ】

 「世間」が崩壊しつつある今、好むと好まざるを問わず「社会」と対面しなくてはならない機会が多くなってくると思われます。その時に「自分に関係のない世界」としてだんまりを決め込むと、おそらく孤独のまま社会に埋没してしまうのではないでしょうか。

 では、「社会」と付き合うため、自分の存在を社会に示すにはどうしたらいいか?
 それはまさに、「<対話>の無い社会」でも「世間様が許さない」でも言われてきた事ですが、演劇を通してシビアに「社会」と対峙して来た著者はどう考えているでしょう?

 それを、秋葉原通り魔事件の犯人がネットに書き込みをした件を取り上げた上でこう述べています。
 彼は、故郷青森という「世間」を出た後、派遣先の会社でも、寮のある地域でも彼を守ってくれるセイフティー・ネットとしての「世間」と出会うことはできませんでした。
 だからこそ、彼は、自分を守ってくれる「世間」をネットの向こうに夢想したのです。
 そして、彼を受け入れ、守り、理解してくれる理想の、つまりは幻の「世間」に所属しているはずの他のメンバーに向かって、短い言葉を出し続けたのです。
 もちろん、そんな「世間」など、ネット上にも、ネットの向こうにもありません。
 ここで僕は想像するのです。
 もし、彼が、「世間」と「社会」の違いを理解していて、彼が探し求めている「世間」など存在しないとはっきりと理解していたらどうなっていただろう。そして、「世間」が存在しないのなら、代わりにネットの向こうにある「社会」に向かって発信しようと考えたら、どうなっていただろう。
 「世間」に向かって書くとは、自分の思ったことを思ったように書くだけのことです。共通のバックボーンを持った人に向けた文章でくだくだと説明するのは、かえって他人行儀と思われてしまいます。
 「社会」に向かって書くとは、自分がなぜそう思ったかを、一定の情報を相手に与えながら、つまりは必要な情報を交えて、自分の気持ちを書く、ということです。
 まったく違ったバックボーンを持った人に理解してもらうためには、ちゃんとした状況説明が絶対に必要なのです。
 当然、ある一定の長さが必要になります。長過ぎても「社会」は読んでくれませんが、3行ぐらいでは、必要な情報はとても伝わりません。
 「社会」に向かって書くとは、自分と違う世界に住んでいる人にも事情を理解してもらえるように書く、ということなのです。
 うまくいけば、ネットの向こうの「社会」に住む、自分となんの関係もない相手に対して、適切な情報と面白い表現でなにかを伝える説得力を生むようになるのです。
 僕がこんなことを言っているのも、彼はそういう文章を書ける能力があったと思うからです。
 「俺ってゴミ以下だ。ゴミは回収してリサイクルできるから」
 この表現は、たいしたものだと思います。自分をちゃんと批評的に突き放して、表現にしています。

 みなさんはどう解釈するか分かりませんが、私は3人の著者が言っている事はほぼ同じ事だと思います。
 で、聞いてみれば「そんなの当たり前の事じゃないか」と思うことだとも思います。
 しかし、省みてみると、実際はそんな当たり前の事が何故かできていない。
 だからこそ、別々の視点で世の中を見る著者達なのに、同じ事を言うのだと思います。

 「社会」に無関心なまま、ただ決められたとおり言うだけのコンビニやスーパーの「いらっしゃいませ」を、著者は「独り言」と呼びます。
 コンビニやスーパーでの挨拶が、すぐに「独り言」になってしまうのは、日本人が「社会」と話すことに慣れてないからです。
 ずっと「世間」としか話してきませんでしたから、そして、「社会」は無視してきましたから、にこやかに「社会」の人に話しかける、という回路がないのです。そして、「独り言」になった時に、それが「独り言」であるという自覚も希薄なのです。相手は、「社会」に住む人ですから、存在しないと同じなので、「独り言」になってもその意識が低いのです。
 
 だからこそ「(個人の集合体である)社会」であるはずのネットであっても、「世間」や「空気」を作ろうとするのかもしれません。
 だって、そうしないと、話す事ができないから。

 そういう人をトンデモブラウさんは「対話弱者」と呼ぶのかもしれません。
 しかし、社会的にそういう人をどう扱うべきかはさておき、個人的には無理してそういう人と話を合わせる必然性というものは全くは感じないなぁ。


【相手に迷惑かどうかはぶつかってみないと分からない】

 『でも「世間」はそんな「対話弱者」を守ってあげられるんだ』と言うかもしれない。
 それについて、実は「対話弱者」がそもそも「世間」が生み出しているんだよ、という話があったので紹介しておく。多数決の話で述べた「愚民は世間が作る」とも同じ事。

 著者は、「自分の子供にはどんなふうに育ってほしいですか?」と聞かれて「他人に迷惑をかけない人間に育ってほしい」と語る母親について、こう考えます。
 「世間」であれば、共同体の共通の目的があります。その共同体が何を求めているのか、はっきりとしています。だから、何が迷惑となるか、よく分かるのです。
 共同体の目的のために、自己の欲望を抑える、ということが大切なんだと分かるのです。
 けれど、「世問」が崩壊し始めると、同じ目的の「共同体」というものをイメージしにくくなります。
 子供の頃から「他人に迷惑をかけない人間になれ」と言われ続けた人は、他人との接触を避けるようになります。何が「迷惑」か分からず、常に考え続けなければならず、自分が明確な欲望を持ってしまうと他人と対立することになり、それが「迷惑」と考えてしまうからです。
 他人に頼ることを避け、自分がはっきりとした欲望を持つことに戸惑い、人間関係から逃げ続けるのです。
 けれど、他人と交わらないで生きていける人なんかいないのです。問題は、繰り返しますが、相手がそれを「迷惑」と感じるかどうかなのです。
 求められるのは、「相手を思いやる能力」ではなく、「相手とちゃんと交渉できる能力」なのです。


【おわりに】

 著者はこういった「世間」や「空気」に支配されながら生きる事についてこう言います。
 あなたがそれをよしとするのなら、もうこの本を読む必要はありません。強制された同一性に身を委ねればいいのです。けれど、それが、堪えられないのなら、私たちは、「世間原理主義者」に戻ることはできないのです。
 できることなら、同一性を信じるより、多様性を喜ぶことで、なんとか、このやっかいで、苦しい世界を生き延びたいと思うのです。
 それがこの本を書いている動機なのですから。

 それではどうすればいいのでしょう...

 ...と続けたい所ですが、その解決方法が腑に落ちるためには、この本をちゃんと読む必要があると思いますので、中途半端な引用はしないでおきます。
 世間や空気に息苦しさを感じる人はぜひ読んでみて下さい。

 ちなみに、著者は解決策を提案した後こう言っています。
 何に頼ってもメリットとデメリットがあると僕は書きました。
 僕は、この方法が、一番、苦しみと喜びを比べた時に、楽しい方に天秤が傾くのではないかと思っています。

 「プロパガンダは疑え」と騒ぐ人もいるので、念を押しておく。
 「<対話>のない社会」の著者も、「世間さまが許さない!」の著者も、そしてこの著者も、いわゆる「価値相対主義者」的な立ち位置だと思うのね。
 「価値相対主義者」だからこそ、「絶対的な正解」は無いと分かっているわけで、だから「でもこちらが本当はいいんです」何て無責任に言えないし、言ったら自己矛盾になる。
 だからこそ、結論めいた事を言う時は、なるべく“私は”と判断の主体を明らかにするんだよね。
 「私の判断は私の判断。その判断の元となる情報は与えるけれど、あなたの判断はあなたが下しなさいな」と言いたいのだと思うよ。

 それは、自分の能力の限界を認める事であり、相手の主体性を認めるという事。
 こういうのは、おそらく「プロパガンダ」とは真逆の理念じゃないのかな(何をして「プロパガンダ」と言いたいのか、よーわからんけど)。
 そして、こういうのも「個人の集合体としての社会」における<対話>の有り方の一つであると思う。

 ...何故彼らの態度の肩を持つかと言うと、実は、私自身もそうなんだ。

 昔から友人に相談された場合は、「こうした方がいいんじゃない」とはまず言わない。
 私にとっての最良の判断が、友人にとっての最良の判断であるか責任持てないから。

 それで、こういう言い方をする。
 「私から見れば、これはこうなんだと思う。だから、もし私だったら多分こうする。
  だけど、あなたがどうするかは、あなたが決めるべきだからね」

 そしたら、ある友人にこう言われた。
 「あなたって、基本的に冷たいよね」

 ...
 
 確かに言われる方にしてみれば、無責任に聞こえるんだよね。
 でも、保障できない事をさも大丈夫かのように押し付けるのこそ無責任だと私は思う。
 言わせてもらえれば、自分の行動を他人に決めてもらう方こそ無責任の極みじゃないかぁ。

 ま、そういうスタンスは私が選んだものだから、
 友人が「冷たい」と思った感覚を否定しようとは思わないけどね。

 多分その友人が属していた「世間」では、そんな時、不確かな結論を無責任にも「絶対大丈夫」と言いながら与えてくれていたのだろう(それはそれで心の支えにはなるんだろうケド)。
 
 でも、人のため真剣にあれこれ考えたホットな私が
 「冷たい」呼ばわりされたのは、きっとそんな「世間」のせい。


 だからやっぱり私は、「世間」がキライだ。
nice!(0)  コメント(10)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 10

naoko

わたしにとっては「世間は怖いもの」です。同時に「逃れられないもの」でもあります。
好きとか嫌いとか私的な(プライベートな)感覚で言えるなら、そりゃ「世間を好き」とは言えません。

世間は人を育ても救いもするし殺しもする。
しかし、そんな世間に対して、「わたしは世間など必要ない」とはとても言えません。
そういう意味で、わたしは自分が〝弱者〟だと自覚してます(笑)。

一方では、「もはや人を救い育てる世間などどこにもない」世の中なのだとしたら、〝弱者〟であるわたしはどこへ身をゆだねればよいのでしょう?
新興宗教にでも身を投げるしか道はないのかもしれない。
そう考えると、新興宗教の信者がどんどん増えるのもわかる気がする。


逆に、たとえば、人が個人主義を標榜できる自信、その強さはどこからくるのだろう?
はたして、幼少から親兄弟・家族や親族や友人たちの守りもなくして、そうした〝強さ〟を持ちえるものだろうか?
天涯孤独の上、世間の守りも必要としないなんて、わたしには到底無理!絶対、不可能です。


とはいえ、社会に対してどう自分の考え、思いを表現し、説明していくか?
それは、とっても大切だと思う。
世間の壊れてしまった社会では、個人と個人が互いに対話という糸を紡いでゆく以外に、人とわかり合い、結びつく方法はないものね。
by naoko (2010-02-11 03:41) 

トンデモブラウ

前々回からの引用含みのエントリーに反論していたのは、一応「Judgementさんの文脈の上でのもの」という認識のつもりです、私としては。
感覚としては、「Judgementさんがある人物の写真を見せて、『かっくいいでしょ!』って言っているのに対して、『詐欺師風じゃね。』と答えている。」という感じ。
だから、「実際に会ってないのに、見た目で判断するのかよ!」という批判は、心外なのですよ。(まぁ私の文章力のせいですから、とりあえず甘んじましょう。)

で、今回のコメント。
「網棚の忘れ物が盗まれないすばらしい日本」→「自分と関係ない社会のものだから」、というのは随分寂しい分析ですねぇ。(この部分だけに限定すれば。)
鴻上尚史さんは、意外と好きなのに日本のいいところがまるで解っていないのか、わざとすっとぼけてるかどっちかですね。(この部分から受ける印象関してだけですが。)

>「社会」と「世間」を使い分けながら、いわば、ダブルスタンダード(二重基準)の世界

「世間」って一つですか?
同居世帯<友人関連<仕事・学校関連<・・・<社会、って複層構造じゃないかと思いますけど。
マルチスタンダードでしょう。

>「本音と建前」というダブルスタンダードを駆使する側

「本音と建前」は、ダブルスタンダードですか?
私の生きてきた社会(これは世間でもいいです)では、スタンダードは「建前」ですけど。
例えば、川で溺れている子供を助けた場合、
建前:子供が溺れそうになっているので助けました。
本音:小汚い川に入るのは厭だったけど、目の前で子供が溺れているのは無視でできないよ。子犬とだったらスルーしたのにね。保護者がもっとしっかり見とけよな!
「面倒臭くて厭だけど助けてやったんだよ。」なんて言う必要はないし、そんな社会(世間)は住みにくそうだ。

「長幼の序」に関しては、完全に否定的立場。
年長者を敬うのは、シビリアン・コントロールの根底ですよ。
それと同時に、年功序列に関係なく才能のある者は認められればいいだけの話。
できの悪い部活の先輩なんて例は、ありふれているけど特異な例をだして目くらまししようとしているとしか思えない。
あれっ、最初の方でお年寄りに席を譲るだのという話もあったような・・・
才能ある若者だけ優遇して何て話は、金持ち優遇税制みたいで鼻もちならない。

『日本の会社員は働きすぎだと言われます。(中略)つまりは、会社に長くいることが、働きすぎだと言われる主な原因です。』

これはどこの話でしょうか?
その会社、社員にクレージーキャッツとかいます?
私が全ての企業を経験したわけじゃないですけど、今まで所属した会社や関係した会社hでこんなの見たことないですけど・・・そんなんでお金もらえるならそこに勤めたいなぁ、いや本当の話。
「バリバリと働き続けている人は少数派」これは解る。
でもしょうがないでしょう。
同じ時間にみんな同じ仕事をこなせるわけではないので、人より多く働いてもそれに十分報いられないこともある。
でも不満を漏らすのは、そいつら以外の方が多かったりするから不思議。(まぁ個人的には不思議でもないですけど。)

>差別的で排他的
差別に関しては、カースト制なんか出すまでもなく世界中どこにでもあるのでね。
現状の被差別部落問題としては、被差別側の意識なんでしょうか。
部落出身者に何の特別異質な感情もないですけど。
なんで日本だけ「特別ダメ」なことなんだろう?
別に差別上等、なんて言ってませんよ、念のため。
「世間」が排他的というのは解る。
というか排他的だから「世間」なんじゃないの?

>神秘性
>「迷信」や「おまじない」や「ジンクス」や「しきたり」などを信じていて

そういうイベント(お祭り)なんじゃないのかな。
個人的には否定しませんけど。(私は信じませんが。)
でも排他的ですよね、そういうのって。
で、犯罪者を出した最少単位の「世間」は、ある程度の責任は負わされるんじゃないかと思います。(私が日本人だからなのか?)
特にそこに所属する年長者とか支配者格の人に対して。
おじいちゃんが殺人鬼だからって、その孫と遊ばないってことはないですけどね、きっと。

>Judgement的視点

「弱者同士が身を守るための知恵」だけじゃなくって、それを「世間」に拡大した基準にしたもの、だと思っています。
年功序列と同じ方法の弱者救済システムですよ。

長くなったので、つづく・・・
by トンデモブラウ (2010-02-11 15:10) 

はと

世間って固定的にとらえるものなの?
そうとらえちゃうことが、中途半端な世間の社会化(誤用)っていうか、本来、あわいなるもの――空気だって、揺れ動き、入れ替わる――のあるべき本来の機能をそこね、自分たちで自分たちの首を絞め窮屈にしてきたんじゃないかなって思うところもあるんだけどな。
村八分っていったってその村を出ちゃえば関係ないわけだし、一人が無数の世間に属していて、あっちの世間、こっちの世間、こっちの空気、あっちの空気って使い分けてはじめて機能するものなんじゃないかと思うんだけどな。
「世間」が嫌いだっていっても何のことだか、絶えず流動する得体の知れないもの、いったいいつごろのどんな世間? って聞いてみたくなります。いえいえ基本おもしろく読ませてもらったんだけどね。失礼。
by はと (2010-02-11 16:17) 

トンデモブラウ

・・・つづき

「個人主義」って言うのは、能力のある者がヘタレた野郎なんか面倒みてられるか、ワシだけ先に行くからな、って言っているように感じる。(これは、単なるつぶやき。)

>世間と空気
「世間」が「空気」を作り出すのではなくて、「空気」が「世間」という閉鎖社会を生み出している、ということでしょうか。(言葉遊び風な・・・)
「その瞬間の力は圧倒的」というのはよく解りませんが、この段落を読んで「世間」や「空気」にネガティブな印象は持ちませんでした。

>絶対化に対抗する相対的な視点
戦争に突っ走った原因は、悪しき官僚主義だと思いますけど、理想的な議会制民主主義であれば絶対失敗しない、というわけでもないしね。
個人的には「“自分で判断する事”よりも“不安を他者と共有できる事”の方」が、多く存在する“自分で判断できない”(もしくは個人で責任を取る能力がない)人が窮屈じゃないんじゃないかと思うんですけど。
神様がケツを持ってくれている白人よりも、生きている今を大事にしている、という感じがする。

>多数決を台無しにする「空気」
「愚民がいるからどうしよう」っていう話をしているつもりだったのに。
だって現実にいっぱいいるし。
愚民の「対話」を傾聴するのって大変よ。
で、多数決ってそもそも「議論」後の最終決定でしょう。
その後で飲み屋で愚痴をこぼすってみっともないなぁ。
今時会議で発言できないなんてないし。(黙ってるだけの人って、もう会議に呼ばれないと思うが。)
こういうのは、ワンマン社長の独断採決とかの例じゃないの?

>議論を拒否する「空気」
訴訟とかクレーム対応と議論って、まとめて一緒に語るのは・・・無理ないですか。
ケース・バイ・ケースとしか言えないと思うけどなぁ。
「人殺し!と叫ぶ事と、銃で撃つ事を繋げるなんて飛躍だ」、とは思いません。
私も十分あり得る話であると思います。
銃で撃つとかビルから飛び降りる、なんてのは突発的な衝動でしょう。
でも、『「今どき、タバコを擁護するんだから、殺されてもしかたがない空気だよね」と、普通の顔をして言うのです。』って・・・言わねぇよ。
もっとそう思える「空気」の例をプリ~ズ。
だいたい「人殺し!」と叫んだ女性の例は、「『空気』を読めない」例にしか思えませんけどね。

>空気に水を差す
子供じゃないと水は差せないかもしれませんが、Judgementさんクラスだと冷水をぶっかけるくらいはできそうでうね。
で、『なるほど...だからケンカ別れみたいなのばっかり』につながるのか。(合掌)
『王様の作り出す「世間」が強力』なんじゃなくて、王様の持っている権力が強力なのでみんな追従しているんじゃないかと思うけど。
主人公が王様じゃなくって、身分の低い人ならきっとみんな注意したことでしょう。(若くてきれいな女性だと、また対応が違うかな?)
そういう「空気」は、「世間」が醸し出す「空気」と違うんじゃ・・・

>中途半端に壊れている「世間」
「みんな」というのがその言葉通りだと受け取る人はいないでしょうが、そう言われれば私は「嫌っている人がいるのか。」と反省はしますね。
「みんな」に好かれているとも思っていないけど、正面から批判している人が一人でもいるってのは、グサっときます。

自分が能力のある人間だと思っている人達が取り入れた「リスキーな自由」によって、愚民の「安定した不自由」が奪われたということですね。
その実「リスキーな自由」推進派の中にも置いてけ堀を食わされているボケ共がいっぱいいるというのが現状でしょうか。

言葉の変遷に文句言ってもしょうがないので、送り物をするときの言葉なんかどうでもいいですけど、自分の全くいらない物を貰った時には素直に感謝して受け取る「空気」は、そう悪いものでもないと思ってます。
「いただけないわぁ。」と言って断るのは、失敬だねぇ。

「ID理論」派は、インテリでしょうね。(バカですけどね。)
ネット右翼は、「伝統的で温かい日本」じゃなくて「対話」のある社会実現派でしょう。(おじいちゃんが殺人鬼という「空気」でいぢめられてる日本って子供を助けたいのでしょうから。)

なぜ「プロパガンダ」じゃないか、と騒ぐかと言うと、ここで上がっている「世間」とか「空気」というのを「自由主義による責任感(及びその重圧)」と置き換えても、全く同じ論調で語れるように思えるからです。
こういう手法で社会を変えても、ヒエラルキーの構成メンバーが変わるだけで、結局構造的に何も変わらないんじゃないだろうか。
Judgementさんの主張である「ワシが生きたい社会はこうなんじゃ!ついてこれんヤツの面倒なんかみれるか。死ね、ボケっ」(若干の意訳)というのであれば簡単に理解できるんですけどね。(同意は躊躇しますけど、置いて行かれる側なので。)

あれれっ送信できてなかったゾ。(何で?)
by トンデモブラウ (2010-02-11 21:13) 

cosi

第三弾は鴻上尚史さんですか!
舞台は見たことがありませんが、エッセイを読むと、普段感じているモヤモヤをスッキリさせてくれる人だな、と思っていました。読むのが楽しみです。
またまたnaokoさんに、皮肉を言われる、いや、羨ましがられそうですが、そんなこと気にする小娘ではありませんから、naokoさんお気遣いなく。
存分に羨望の眼差しを向けてください(笑)。
演出家脚本家という人たちは、視点が鋭く深い人が多い気がします。井上ひさしさんとか、宮本亜門さんとか。実際に人の心を動かさないとやっていけない仕事だからでしょうか。
by cosi (2010-02-11 23:35) 

naoko

金網の荷物は他者の無関心を表してるかもしれないけど、たとえば、外国からの留学生が一様に驚くのは、学食に財布を置き忘れても、誰かが、レジに届けてくれるという事実です!
これにはほとんど世界中から来た留学生が、驚愕します。
それで、留学生同士の間では、新しい留学生が来ると、わざと千円入れた財布を誰も座っていないテーブルに置いて、離れたところからみんなで推移を観察するというゲームが流行っています。
すると、日本人の親切な学生が、その財布をレジに届けるのを見て、本当に深い感銘を受けるようです。
と、いうのも、実際にやって見せないことには、そういう結果になるといくら言ってもだれも最初は信じないからです(苦笑)。

ある意味、日本は特別な国なのですね。
そういう意味では、トンデモブラウさんの言い分に一部同意です。
この国のすばらしさは、外から来た人間のほうがよく見えているかもしれません。
by naoko (2010-02-13 06:30) 

naoko

ただ、ネット右翼に関する部分は、トンデモブラウさんの言い分は、よくわからない。

自分の身近なリアルでの経験上、Judgementさんの言うように、「古き良き温かい日本」「一つの家族のような頼りがいのある社会」になってほしいという強烈な願望は、確かにネット右翼の一部を含む、現実の右翼の人々の顕著な特色のひとつだと思う。
一部の人格の成熟していない連中は、それが高じると、そうじゃない世間を無差別に攻撃したくなるようです。
そして、なにか象徴的なモノに攻撃の照準が絞られると、行動に見境がなくなることもある。

もちろん、もっと成熟した右翼の人たちもいる。
実は、そういう人たちの中には、かなり話が合う人もいます、わたしは。
by naoko (2010-02-13 12:11) 

トンデモブラウ

【naokoさん】

「右翼」とか「国粋主義者」のような民族派はそうでしょうが、「ネット右翼」という言葉が指すのはちょっとそれらとは毛色が違うんじゃないかな。
要するに思想的に「右翼」なんじゃなくて、ブログとか掲示板とかで反中国・反朝鮮的発言する匿名の輩を指す言葉でしょう。

実は私の親族にそっち系の有名人がいた(故人)ので、そっち系には理解があるんです。(ネットのないほうね。)
by トンデモブラウ (2010-02-13 22:12) 

ssm

はじめまして。
最近『世間』『空気』関連の本を読みまくってます。

「排他的で差別的」という特徴の裏には、「内部には親密性を要求する」という働きがあるんじゃないかと、今思いつきました。

要するに「仲間なんだから、みんな仲良く!」みたいな空気。

会社員の場合、仕事上同じ目的を共有してるとはいえ、プライベートなレベルでまで「仲良し」を求める必要はなくて、ビジネスライクとでも言いましょうか、業務上最低限のコミュニケーションが取れていれば、OKだと思うんです。

学校の教室でも同じです。
気の合わない子供同士に、無理に「仲良し」を求めるから、その反発から集団的なイジメへと発達するような気がします。

「みんななかよし」という幻想を捨てて、嫌いな人間とは最低限の付き合いに留める。
そういったドライな付き合い方を認めてもいいんじゃないかと思います。

ってか、学校で教えてもいいくらいです。
by ssm (2010-03-11 01:26) 

ssm

2chにいるような連中って自我の塊みたいなヤツらだし、世間の復活を願ってるとは到底思えないけどな。

そもそも、ネットは実際の世間と違って、選ぶこともできるし、簡単に離脱することもできる。
「ブログ炎上」くらいでいちいち騒ぎすぎだと思ってるよ。

ってか、リアルに「世間原理主義者」がいるとすれば、ブラック企業だと思うな。

組織のために構成員が犠牲になることをよしとする。
そんな会社だから。
by ssm (2010-05-05 14:08) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。