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私の神と世間の宗教 [思い付き]

 今回は『世間様がゆるさない!』コメント欄の「宗教ネタ」引越し用の記事なんだけど、ほとんどヨタ話。
 ほとんど個人メモ的な話だから、無視してコメント欄だけ使ってもらっていいよ。


 私は無宗教だ、と言っているけど、神は存在すると信じている。
 いや、「信じている」じゃないな...神の存在を確信している。
 たけど、それは多分「宗教上の神」とは違う。


【私の神様観】

 実は、小学校の時、「この世界は全て作り物ではないか」という思い(妄想?)に囚われていた(それは、当時読んでいた星新一のショートショートにそんな話があったせいかもしれない)。
 んで、それについて色々考えた結果として「この世界もこの身も全てウソかもしれないけど、そんな事を考えているこの”自分”という意識は間違いなく存在している」と結論付けていた。
 例えるならば、もしかしたらこの世はゲーム機のRPGみたいなもので、そこのダンジョンやらモンスターやら村人やらはすべて架空のものであるかもしれないけれど、その世界でプレイする”自分”(の意識)は少なくとも実在しているという感じ。

 ただ一つだけ疑問が残る。『そのRPGを作ったのは誰?』
 少なくともそれは”自分”ではない。
 そうなると、最低限もう1つの”自分以外の実在”を想定しなくてはならない。
 んで、それこそが「神様」という存在だと私は考えた。

 ...何とも虚無的で嫌なガキって感じだけどホントの話なのよ、コレ。
 もう少し成長してから、デカルトの「我思う故に我有り」というフレーズを聞いた時や、荘子の「胡蝶の夢」の話を知った時、「あ、私と同じような事を考えている人がいるんだ」と妙に安心したりもした(実はデカルトはちゃんと読んだ事が無いので、ホントに同じような考え方なのかはよく知らないけどね)。

 じゃぁ、こんな考え方を持つぐらいだから、他者に対して無関心だったり、あるいは他者を傷つけても平気な奴だったかと、違うんだな、逆。

 まず、”自分”と“神様”以外の「他者」については、実在は確証できないだけで、決して否定されるわけではないんだよね。だから、自分と同じ自我を持っている可能性も十分ある。

 仮にやっぱり架空の世界だとしても、自分がRPGをやる時そうするように、その世界の中のグッドエンディングを目指すのが”自分”にとって最良だろうと考えたんだよ。
 便利なリセットボタンがあるとは限らないんだし。

 ならば、グッドエンディングに向かうためには、効率良くフラグを立てなくてはならぬ。
 それには、世界や登場人物の“アルゴリズム”を良く掴み、上手く反応する必要がある。そうする事は、この世界が現実であろうが仮想であろうがどっちに転んでも自分にとって不利益にはならないだろう、というのが結論。


【私の宗教観】

 じゃぁ、この世にある色々な「宗教」をどう思っているかというと、「人間の願望の結晶」と捉えている。
 そして「神様が作った」のではなく「人間が作った」からこそ価値がある。
 多くの人間が何を望んでいるのか分るから。
 だから、実は「宗教」には非常に興味があるんだね、実は。

 また、私も神社・お寺・教会などなど宗教的な施設に行くとちゃんと厳粛な気持ちになるんだけど、それは、神様に対する敬意と言うよりも、そういう「宗教という作品」をつくり上げた人々に対する敬意であったりする。

 とはいえ、そういう私も「人間」だから(多分)、一応は願望を想ってみるし、お守りも買うけどね。そんな感じの付き合い方。
 逆に言えば、こんなスレた私にも、それをさせるぐらいの説得力をかもし出すような建物やギミックを考えた『人間』ってのは、やっぱすごいと思う。

 「宗教は嫌い」と言った事があるかもしれないけれど、正確に言えば「宗教は好き、外から読み解く分には。でも内側に入り込むのは嫌い」といったところ。
 「信者」という存在も中々微妙。好きだけど嫌い。
 宗教以外の事については非常にいい人が多くて好きなんだけど、こと宗教の事になると狭量になるので嫌い、って感じ。


【宗教の狭量さについて】

 既に書いていた気もするケド、大学時代、キリスト教系M教の勧誘員(外国人)と暇つぶしに論議した時の話。

 私はマグカップを手に取りこんな風な事を言った。
「このカップは、同じモノでも見る角度によって見える絵柄、あるいは取っ手の見え方は変わるけど、それは一つの同じマグカップだ。実は、仏陀やマホメットやキリストは、それぞれ想定するものは違うけど、実は同じ”神”の事を言っているのではないのかな。」
 
 すると、M教の勧誘員は2つの数式を書いて示した。
 「1+1=1.9999999」  「1+1=2」
 そして、「左の式は近い。でも正しくない。右の式が正しい。他の宗教の言っている事は近いかもしれないけれど正しくない。私達が伝えたいのは正しい教えナノデス」と言った。

 即思ったのは「いや、例えは面白いけど、自分の信じる教えが、1.9999999ではなく2であるって根拠はなんなのさ」って事。
 まぁ、信仰者に何を言っても仕方がないと思ったから言わなかったけどさ(本当はそれを伝える英語力が無かった)。

 特に「唯一神」を想定する宗教の信仰者、あるいは宗教そのものは、神や宗教について極めて自己中心的で狭量なんだよね。
 さしたる根拠もなく(あるいは都合の良い部分だけを取り出して)自分の信じる教義こそが「絶対正しい」ものと言い切る態度は自己中心的であるし、その「絶対」を脅かす他の宗教(あるいは他の宗派すら)は絶対認めない点で狭量。

 気持ちは分かるんだけど、「それが当然」といった態度を取られると、イラッとくる。


【おわりに】

 月並みな表現になるけど、「宗教」って難しいよね。

 それこそ「薬」と同じで、必要とする人は多いけど、分量を間違えると危険だし、「効果」の裏には必ず「副作用」もある。
 
 他人に言わせれば、私は「宗教に入るよりも、悪徳宗教の教祖になるタイプ」らしい。
 (そう言われた時は「何言ってんの、私は神様だよ」と答えたケド)

 ならば、その時のために、もう少し宗教を勉強しておかなくては。


≪3/11追記≫ ※ 愚樵さんへのレス参照

 実は、上の記事では宗教についてのみ述べていますが、その視点の延長として、科学も宗教も根っこでは同一だと考えています。というのは、自分(の意識)と神以外は不確かだという事は、宗教はモチロン科学ですら"不確か"になるんですね。

 ただ、これではあまりにもザックリしていますので、もう少しピンポイントな共通点を探すと、「この世界は、人間以外のモノが作った一貫した法則に支配されている」事を前提にその「法則とは何か」を追求している点で共通。そして、その前提がホントに正しいのかは(人間なら)誰も確かめられない、というのが”根っこ”にある。ただ、その前提で考えても、特に支障が出ない(と思える)から、運用されている、という感じ。
 
 でも、「どっちも不確かだから同じ」と言ってしまえば身も蓋も無いわけで、そう言う事を言うと誰かから「極端な相対主義」扱いされてしまいます。ので、同じところを見るだけでなく、違う部分も把握すべきところです。

 しかし、「宗教と科学では確からしさが違う」と言うとこれまた色々問題が出るわけで(宗教を信じる人はそれを最も確かだと思っている人もいるでしょうから)、量的な違いではなく、質的な違いを探してみましょう。

 それで私が考えているのは、科学では「信仰があろうがなかろうか機能する法則」を発見する事を目的にしているが、宗教はそうではない、という事です。

 モチロン宗教だって教派を超えた普遍性を持つ法則にも言及するでしょうがそれは目的ではない(それだけなら単なる「道徳」)。宗教が宗教として成立するには、神への信仰前提の機能を求める事が目的になるわけですね。

 「信じなくても救われる」と「信じるものは救われる」の違いと言えます(ただし、正確には「信じなくても救われるかもしれない」と「信じるものは救われるかもしれない」の違いとなります)。
 この点では宗教は科学よりも狭量で差別的である、と言えます。
 
 んで、どちらがいいか、となると「どっちも」でいいんじゃない、という気はする。
 救われる手段は多い方がいいだろう。
 ただし、互いに利害が衝突し、どちらかを選ばなくてはならないとすれば、どうすればいいだろう?
 そのあたりは非常にややこしいので、また後日。機会があれば。
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Judgement

【トンデモブラウさん】 
 というわけで、「世間様~」コメント欄のレスはこっちに。

>>宗教なんてみんなインチキだ
>でもOKなんですが、私が「インチキ」とするのは明確な嘘(=現世御利益)を含むもの。
>精神世界では、「嘘」じゃなくなるでしょ、何でも「あり」だから。
ゴメン、この辺がまだ分らない。
「現実の苦難は神様が与えてくださる」が“なんでもありの精神世界”だとして
なんで「神様が現実の利益を与えてくださる」はその“精神世界”ではないの?
いや、言わんとする事はうっすらと分るんだけど
「精神世界は何でもありだから嘘じゃなくなる」
というのは、正直どう解釈すればいいのかワカラン。
精神世界に持っていけるものといけないものの違いは?

>なので、「宗教」が与えてくれる”楽”は、「現実逃避」じゃないんですよ。
>「逆風の現実に向き合う」ための補助的な作用なので、むしろ”苦”なのかもしれない。
>というより、”苦”を”楽”に変える、または”苦”を和らげるという感じかな。

 ああ、「逃避」という言葉を、「苦難から逃げる」と受け取ったのね。
 『理不尽な現実の棘』という“現実”を『神様の愛の鞭』にすりかえている、ってところが「現実からの逃避」って私は考えた。
 『「だからダメ」っては言わないよ』と言ってるし、批判じゃないんだけどさ。
 これはいわゆる仏教で言うところの『嘘も方便』って事だよね。
 
>なので、別に「宗教」にこだわらないけど、
>そっちの分野の総称が「宗教」だと思いますけど。

 いや、どっち分野だ?
 う~ん「トンデモブラウさんが求める宗教」はおぼろげながら見えるけどさ。

《別件》
 ちなみに、「宗教」話とはちょっとずれるけど。
 トンデモブラウさんは、「インチキ宗教」と「宗教」について
 まず明確な線引きを決めた後に区別している?
 それとも区別したい「インチキ宗教」と「宗教」がまずあって
 そこに線引きしようとしている?

 本来は、前者でなければ区別はできないはずだけど、後者でやろうとするから(必然的に)上手くいかないのかな、と思ってみたりして。

 なんでこんな話をするのかと言えば、トンデモブラウさんを特に糾弾しようってわけじゃないよ。
 これが「ニセ科学批判」の問題につながると思ったのだ。

 「ニセ科学」関連でも、よく「線引き問題」とか「グレーゾーン問題」とか「程度問題」とか言って“悩んで見せる”のが流行のようだけど、結局線引きと区別の順序が逆になっている、ってのが根本的な問題じゃないかと思っているのね。

 結論が先にあり、理由を後から考えているからそうなっているだけなのに、あたかも「判断が難しい問題だ」って事にして、押し切ろうとしている感じに見えるんだなぁ。

 ...ってことをとりあえずどこかに書いておきたかっただけ。
by Judgement (2010-03-06 00:19) 

愚樵

Judgementさん、はじめまして。愚樵と申します。

とある人から勧められて、少し前から拝見していました。私も論戦? 対話? に参加させて頂きたいと思います。よろしくお願いします。

食いつきはここから。

> 「1+1=1.9999999」  「1+1=2」

この話は面白いですね。同時に宗教と信仰の本質も良く表わしていると思います。

私の考えでは、宗教は「世界の定義づけ」、信仰は「定義づけへの帰依」となります。そしていかなる「定義づけ」も「1.9999999...」でしかありえず、最後の「0.00...1」を補うのが信仰だと考えている。ですので、

>自分の信じる教えが、1.9999999ではなく2であるって根拠はなんなのさ

の疑問に私が横から答えを出せば、“その根拠は「私の信仰」”ということになります(Judgementさんのケースでは、「M教勧誘員の信仰」です)。
ですから、「○×教を信じなさい」というのは、実は「○×教を信じている私を信じなさい」に他ならない、と思うわけです。

この、宗教・信仰についての捉え方は、

>この世にある色々な「宗教」をどう思っているかというと、「人間の願望の結晶」

に近いものだと思います。ただし、まったく同一ではない。

その差異はおそらく、科学の捉え方に大きく違いが出ると思います。宗教を“世界の定義づけ”だと捉えると、科学もまた宗教のカテゴリーに入ることになると私は考えるからです。

科学は一見、「人間の願望」とは無関係なように思えます。確かに「定義づけ」の側面だけを捉えてみれば、それは「人間の願望」とは無関係に決定されるといえます。

しかし、科学という「定義づけ」を行なうに当たっては「人間の願望」は無視できません。人は科学という「定義づけ」が正しいであろうと信仰するからこそ、科学という営為に多大なコストを費やすことができるわけです。私の目からみれば、科学実験施設を建設するのも、教会や寺院・神社を建設するのも、“同じ”に見えます。すなわち自らが信仰する「定義づけ」をより確実なものにするため、です。

また、そうした私の目から見ますと、ニセ科学批判は異端審問です。ニセ科学を排除しなければならないとする人たちの情熱は、異端審問に向けられる宗教者の情熱に酷似しているように感じます。

ニセ科学も異端審問も、正統なる宗教を信仰する者(自らの信仰が正しいと考える者)にとっては、権威を剽窃することで不当に利益を得ようとする行為にしか映らないのでしょう。
by 愚樵 (2010-03-07 07:40) 

トンデモブラウ

>「現実の苦難は神様が与えてくださる」
>「神様が現実の利益を与えてくださる」

どっちもそう。
でも個人の信仰(お祈り)で、神様の意見は変わらないのですよ。
なので、現実は厳しい、というだけ。
要するに、「お前は乗り越えられるから大丈夫」という神様のお墨付きだけですよ。
で、そのへんのおっさんがぬかしてるなら、「なんだとオラっ!」ってなことにありますけど、相手は神様だからね。
乗り越えられるハズなんですよね。
それが宗教信仰の力。

「嘘も方便」とは、微妙に違う感じ。
証明できないだけで。
当人が乗り越えられれば、それが証拠になるかもね。(証明できないけど。)

《別件》

「明確な線引きを決めた後に区別している」つもり。
死後の世界なんて実証できないんだから、死ぬ恐怖を減らしてくれるなら何でもいいんですが、自分の感情は曲げることができないので、インチキだと感じるものは受入難いんですよね。
で、一番マッチしたのがキリスト教。
原理主義的に聖書の記述を鵜呑みにすることはできませんけど、自分なりに合理的な解釈することは可能。
ぶっちゃけこれって激しく異端なんでしょうけど、自分的にはクリスチャンのつもり。

「ニセ科学」にも、現在”認められていない”ものは全部そこに詰めちゃって、『黒』ですってことにしちゃえばいいのにね。
最先端の科学者は、全部入っちゃうでしょうけど。
とりあえずみんな『白』を目指せば、って思いますけど。

宗教の勧誘ってウザイですよね。
当人に悪意がないから始末に負えない。
胡散臭い代替医療や健康食品を勧める知り合いのおばさんと一緒。
押しの弱い人間だけ犠牲になるんだろうなぁ、きっと。

えっと、教祖になるなら、宗教の勉強はしない方がいいんじゃないかな。
「無垢」じゃないと務まりませんよ、きっと。
インチキ系カルトを目指すならいいんでしょうけど。
・・・意外と向いてるのか。
by トンデモブラウ (2010-03-07 14:40) 

naoko

実は、わたしは自分のまだ知らない宗教の勧誘はぜんぜんうざくないのだ。
とりあえず、大切なのは相手の人格だ。それが気に入らなかったら、当然無視するか、つっぱねる。
では、相手を人間として気に入った場合にはどうか?
その場合は、その勧誘者がどれほど誠実にその宗教を信仰しているかにがぜん興味がでてくる。
さらに、その相手の信仰しているものの中身にもとっても興味がわく。

あらゆる既存の宗教の〝教え〟には、それぞれ人間が生きていく上で価値あるものが含まれていると感じるから(もしかしたらトンデモブラウさんがインチキ系カルトとみなすものの中にも、ね)。

それだからこそ、世の中に新興宗教は広まるのだし、わたしはそうしたトンデモブラウさんの言うインチキ系カルト「信仰によりどころを見出す人たち」を〝愚者〟とは看做さない。
アーレフだろうが、幸福の科学だろうが、創価学会だろうが、ね。
(もちろんわたしにも好き嫌いはある。けれど、それは、それなりにその宗教の中身や教団の内実を勉強もして、内部の人ともよくよく知りあった上での判断。当然、やばそうと感じたら、それ以上は入り込まない。)

というのも、わたしは、互いに自分の信仰だけを正しいと信じて、よく知りもしない(知ろうともしない)相手の信仰を〝愚者の行為〟とみなす、あらゆる排他的精神の持ち主たちを、〝どうしょうもない愚か者〟と考えているから。
by naoko (2010-03-10 03:03) 

Judgement

なんかあちらは非常にゴタゴタしてきた感があり
聖徳太子でない私は概要を把握するだけで今んところ精一杯
なので、とりあえずこちらから返事を書いておく。

【愚樵さんへ】
 はじめまして~

>ですから、「○×教を信じなさい」というのは
>実は「○×教を信じている私を信じなさい」に他ならない、と思うわけです。

 この辺はふーむなるほど、という感じなのですが、「世界の定義づけ」が「1.9999999...」のあたりが上手くつかめません。

 世界を99%規定して、残り1%が信仰?
 おそらく、私が考える「定義づけ」(ある物事を指定して名前を付けるコト)と、愚樵さんが考える「定義づけ」の意味が違うのだと思うけれど...。

>この、宗教・信仰についての捉え方は、
>>この世にある色々な「宗教」をどう思っているかというと、「人間の願望の結晶」
>に近いものだと思います。ただし、まったく同一ではない。

 まだよく分ってないから、近いかどうかちょっと判断できない。
 まぁ、「同一ではない」のは当然だろうし、「近い」としても特に感慨はナイ。

>その差異はおそらく、科学の捉え方に大きく違いが出ると思います。
>宗教を"世界の定義づけ"だと捉えると
>科学もまた宗教のカテゴリーに入ることになると私は考えるからです。

 ちなみに、私の視点においても、「科学」と「宗教」は根本で同じ部分が存在するんですよ(宗教の話だからそこまで踏み込まなかったけどね)。
 なんか、今回のレスはちょっとボンヤリしちゃうと思うので
 お詫びの意味で記事に≪追記≫しておきます。

>異端審問に向けられる宗教者の情熱に酷似しているように感じます。
>権威を剽窃することで不当に利益を得ようとする行為にしか映らないのでしょう。

 これは、別に取り立てて書く話ではないような...
 後者は多分“ほぼそのまんま動機”って感じ。前者は別に「情熱」が何かに似ようが似まいが、「行為」そのものの評価には関係ないでしょ、と言われてもおかしくないわけだし。
 
>私も論戦? 対話? に参加させて頂きたいと思います。

 ...とおっしゃる愚樵さんだからこそあえて苦言を呈しますね。
 あなた固有の視点で、あなたにはどう見え、あなたはそう見えるものをこう思う。
 それは前提から結果まで全て自分の中で完結しちゃっている「あなたの感想」なんだよね。
 「感想」を言う事がダメ、というわけではないよ。
 でもそれだけでは、私は「そうなんですね」と反応するしかない。
 対話に発展しない”閉じた”話なんですよ。
 短絡的な人であれば「異端審問」という響きだけで噛みついてくるかもしれないケドね。

 そのあたりがちと物足りない。
 もう少し自己主張してはいかがかなん
by Judgement (2010-03-11 21:22) 

Judgement

【トンデモブラウさんへ】

 ああ、なんとなーーーーーーく分かってきた気がする。
 
 例えば断崖絶壁の行き止まりの前に立っていたとする。
 そこで神様はこう言うわけ。

「これは、私がお前用に作った試練だ!
 お前ならきっと飛べる。オレはお前を信じている。
 自分を信じて飛べ、飛ぶんだ!
 もしダメだったら、骨は拾ってやる!」

 この時、
「オレの言っている事(お前なら飛び超えられる)を信じろ」
 はOKだけど
「オレを信じれば飛び超えられる」
 は現世利益をほのめかすからNG。

 ...って感じじゃないかしらん。

 まぁ、そんな松岡修造チックな神様観が、クリスチャン全般の認識かは分からんケドね。
 トンデモブラウさん個人としては『「“神様がそう言っている”という事を言っている人」の言っている事』を信じるのが「信仰」なのだろう。

 ...っていうのなら多分今までの話の辻褄は合う気がする。

 ちなみに、ワザワザ試練を作って与える「主」に感謝するのは何故なのだろう?
 いや、素直な疑問として。

 もしかしたら感謝しても
 「バカヤロウ!お前だよ、お前の力なんだよ!自分を信じろよ!!」
 と言われそうじゃない...松岡修造ならば。

>押しの弱い人間だけ犠牲になるんだろうなぁ、きっと。

オロロ、それも神が与えた乗り越えられる試練になるんじゃないの?

>インチキ系カルトを目指すならいいんでしょうけど。

 いや、目指すのは当然そっちだって
(言っているでしょ「悪徳宗教の教祖」って)。
 最近どうも人格が善良な方向に評価されがちだけど(ホントか?)
 本来そっち系なんだって、私は。

 ただ、カルトは目指さないよ。
 太く短くやって逮捕されれば終わりだし。
 やっぱ、細く長くだよね。


 んで、≪追記≫への返事について...
 元の≪追記≫の目的とは違う話になるんだけど
 最近の情勢を鑑みて、ちょっと真面目に指摘しておく。

>自分の感情は曲げることができないので、インチキだと感じるものは受入難いんですよね。
>で、一番マッチしたのがキリスト教。
>原理主義的に聖書の記述を鵜呑みにすることはできませんけど、
>自分なりに合理的な解釈することは可能。
>ぶっちゃけこれって激しく異端なんでしょうけど、自分的にはクリスチャンのつもり。

 そのスタンスが間違いだ、とは思わない。
 だからこそなんだけどさ、最近のトンデモブラウさんを見てちょっと不安なのは、“自分はそう”であるのに、“他人はそうでない”と容易に思いがちなのではないのかなぁ、という事。
 それが時には「見下し」に映る。

 例えば、ホメオパシーについて、“自分なりに”「合理的な解釈ができない」から、「不合理・インチキ」であると言っているよね。
 それが「自分が使わない」理由としては、全くかまわないと思う。

 でも、この“自分なりの解釈”を「誰にとっても合理的なハズ」って事にしちゃってなぁい?
 自分の主張の「合理性」をアピールしてホメオパシーを批判する、って事は「使う彼らは不合理だ」という事を言いたいって事よね。

 でも、そもそも、「合理的」というのは本来単体で使うモノではなく、「~をするのに合理的」とかいうように、『目的』があって初めて「手段が理にかなうか」が検討されるもの。
 だったら、目的が違えば、何が合理的か、なんてものは変わるわけだ。

 「人が違えば同じモノでも違く見える」
 ってトンデモブラウさんも言った事だよ。
 ならば「自分に見ているモノを同じように見ないのはおかしい」
 と考える方がおかしいよね。

 それに従うのならば、ホメオパシーを利用する事について
「自分と同じように何かしらの合理的な解釈をしているかも」
 という前提で考えてみてもいいんじゃないカナ。

 あるいは、自分だってキリスト教について独自の解釈をしているんだから
「ホメオパシーを使う人の解釈は、売り手の主張と一致するとは限らない」
 と考える必要もあるだろう。
 
 そういうのに欠けると
 「バカだから分からんのだ(分かる自分は頭が良い)」
 という、一方的かつ尊大な考え方しか持てない人に見えてしまうよ。
 例え善意であってもね。

 そして、そこに「対話」は成立しない。
 それこそ、声のでかい方の勝ち。
 飽きずに同じ事を言い続けられる人の勝ちだ。
by Judgement (2010-03-11 21:23) 

Judgement

【naokoさんへ】

>実は、わたしは自分のまだ知らない宗教の勧誘はぜんぜんうざくないのだ。
>とりあえず、大切なのは相手の人格だ。それが気に入らなかったら、
>当然無視するか、つっぱねる。

 え~、私はうざいな。
 ていうか、勧誘する時点で、私を遠回しに「暇人」もしくは「救いを求めている人」と見くびっているわけで、その気持ちがまず気に入らん(まぁ、きっとそう見えてしまっているのだろうけどね)。
別に、信じるなとは言わないから、できれば不可侵条約を結びたい。
 最初から入る気がさらさらないのだから、お互い時間の無駄。
 
>というのも、わたしは、互いに自分の信仰だけを正しいと信じて、よく知りもしない
>(知ろうともしない)相手の信仰を〝愚者の行為〟とみなす、
>あらゆる排他的精神の持ち主たちを、〝どうしょうもない愚か者〟と考えているから。

 私も同感だし、さっきトンデモブラウさんに言った事にもつながる。

 だけど、信仰が強いほど排他的にならざるを得ないわけで、逆に言えばそんなに排他的でない信仰はあまり真剣なものではないのかもしれないと思ったり。

 どっちの話を聞きたいか、というと前者だけど
 どっちと対話したくないか、といっても前者なんだよね。
 ジレンマ
by Judgement (2010-03-11 21:23) 

トンデモブラウ

【Judementさん】

ちょっと違う。
崖から飛び降りなきゃいけない状況で、飛び降りなきゃいけないというのを自分に納得させるために「神」さまをダシに使う、って感じかな。
精神面の他力本願ですね。
ケツは「神」さまが持ってくれるゼェ~、それっ飛べ!
みたいな。

>「人が違えば同じモノでも違く見える」

まだそのつもりですけど・・・^^;
だから、一生懸命見えていない部分を<対話>ですり合わせようとしているているんじゃないですか。
足りない能力で。
そう見えないとは・・・
あぁ私が一歩も歩み寄っていないように見えるのかな。
でも、それって今のところ自分に非があるとは、感じてないなぁ。
能力不足は感じるけど。
by トンデモブラウ (2010-03-12 11:34) 

愚樵

【Judgementさん】

...とするのがコチラでのオキテ(笑)のようなので、それに倣うとしまして、まず、Judementさんの「苦言」にお答しておきましょう。

>対話に発展しない”閉じた”話なんですよ。

う~ん、それはJudgementさんの「受け取り方」でしかないのでは?

私の先のコメントが私の「感想」に過ぎない、という指摘はそうかもしれません。が、しかし、それを言うなら、Judgementさんの当エントリーそのものもが「感想」でしかないありませんよね。ご自分でもエントリー冒頭でそのように示されているとおりに。

しかし、私はJudgementさんの「感想」を“閉じた”話だとは受け取らなかった。だからこそ、上のコメントもあるわけですよね?

この、私とJudgementさんの「差異」はなんなのか? おそらくは、私とJudgementさんの〈対話〉についてのイメージの「差異」なんでしょう。

私は〈対話〉は、「差異」さえ存在すれば成り立つものだと考えています。「差異」が存在し、その「差異」を“確認する”のが私にとっての〈対話〉です。それに対して、Judgementさんは、〈対話〉には「対立」が必要だと捉えてえておられるのではないか? 前にエントリーで取り上げておられる『〈対話〉のない社会』の中島氏の姿勢がそうですね。

〈対話〉には「対立」が必要という姿勢は、中島氏のいうとおりに西洋式です。もう少し言うと「テーゼ、アンチテーゼ、アウフヘーベン」の「アウフヘーベン」が〈対話〉である、という構図です。それからすると私のコメントは、Judgementさんの「テーゼ」に対する「アンチテーゼ」ではなかった。そのために、“物足りない”と感じられたのではないでしょうか?

しかし、その中島氏も『〈対話〉のない社会』の終わりの方で、〈対話〉は西洋式だけではないと認めています。連歌や禅問答も、西洋式ではないが完成度の高い〈対話〉だし、西洋式との間に優劣は付けられない、と記しています。

そう、私がJudgementさんに向けて提示したのは、西洋式〈対話〉を促す「アンチテーゼ」ではありません。いうなれば「アナザーテーゼ」です(英独ちゃんぽんで申し訳ありません)。だから「差異」なのです。

「差異」が〈対話〉の条件であると考えるならば、

>でもそれだけでは、私は「そうなんですね」と反応するしかない。

これもまた〈対話〉です。「テーゼ」と「アナザーテーゼ」に重なり合う部分がなかったということを、この場合はJudgementさんが表明した、という〈対話〉の一要素であり、「テーゼ」です。それに対し、私は「アンチテーゼ」でも「アナザーテーゼ」でも提示することができる。それら「テーゼ」と「アンチテーゼ」もしくは「アナザーテーゼ」の〈対話〉が「アウフヘーベン」を生むかどうかは関係ありません。ただ〈対話〉を継続する意思があるかどうかです。

もっとも、こちらはJudgemetさんが管理されているブログです。私には私の「〈対話〉観」があり、それは今述べたとおりですが、Judgementさんが私の「〈対話〉観」は受け入れられないとするならば、それはそこまでの話です。自分の個人的な見解を無理強いすることを〈対話〉とは呼ばないことくらいは、私も弁えているつもりです。
by 愚樵 (2010-03-12 21:30) 

naoko

【Judgementさん】
>こちらを「救いを求めている人」と見くびっている
のではなくて、おそらく、「誰しも救いを求めている」(←当人がそうだから)あるいは「誰しも救いを求めることがある」(←これはかなり真理に近いのでは?)という意識から、良いものを勧めているはずなので、勧めている相手を見くびってはいない人もいます。
たしかに、そこで、外部の相手を見くびるようになる人も多いですが、そういう人は、そうとう排他的な「~教」信仰者になっていて、「自分の信仰が唯一正しい」あるいは「もっとも価値がある」と勘違いしている〝愚か者〟です。
基本、それぞれの教団はそういう勘違い人間を大量生産するシステムになりがちのところがあって、実際、残念ながら、ガチガチのそういう教団や信仰者も多いです。
そして、そういう人や教団上層部とは、どんなに話し合っても、わたしも結局は分かり合えません。
そんな信仰には、正直ついていけないですね。
by naoko (2010-03-13 02:48) 

naoko

信仰がその人に、精神のしなやかさや寛容、慈愛と知恵を与えないのなら、そのような偏狭で憎悪に満ちた信仰をわたしは疑うのです。
by naoko (2010-03-13 02:59) 

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