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疑似科学的思考批判 [疑似科学批判批判批判批判]

 さて、前回は話が長くなりそうなのであまり深く踏み込まなかったけど、「ニセ科学撲滅タイプ」は「ニセ科学である事」自体も攻撃材料となっている旨をさらっと述べた。
 今回はそのあたりについてのオハナシ。

 ところで、「ニセ科学批判界」に反旗を翻した形になってから、およそ一年前。
 今まで何か見え方が変わったかというと、そうねぇ...

 冷静に見る事で分かってきたのが、「ニセ科学批判は一枚岩ではない」という事と、よく見るとニセ科学の問題をさほど考えているわけでも無いくせに仲間のフリをして混じっている人もいるという事。
 その集大成のつもりが前回と前々回。

 そして、もう一つ分かってきた、というか、明確になってきた事がある。
 ニセ科学批判を批判したのは、そこに「擬似科学信者」的やり口、考え方を感じたからなんだけどさ、色んなタイプがごちゃ混ぜになった状態で全体を見ていた時はその臭気は弱かったけど、色々より分けてそれを追跡していくと、その匂いの元は強烈な悪臭を放つほど深刻な「擬似科学的思考」だった。

 元々私は、ニセ科学批判の人間ではなく、昔からピンポイントにABOFANクンいじめをやっていたわけだけど、いじめのネタは主に「考えの足りなさ」と「それを隠し、他人に責任を押し付けようとするずるさ」だったのね。

 まぁ、ちょっと社会派を気取って言えば、「ニセ科学批判」が「ニセ科学理論」の蔓延を防止したいという動機でやっているとすれば、私は「擬似科学的思考」の蔓延を防止したかった。
 んで、「擬似科学的思考」のダメさ加減を示すスケープゴートとして選んだのが彼だったのだ。
...といえば、少しはそれらしく聞こえるだろうか?

 なのに、ターゲットが重複する「ニセ科学批判」の中に「擬似科学的思考」を見つけ、衝撃、愕然、落胆、憤然し、今に至る。
 そして、私としては「ニセ科学批判界」と袂を分かつ前も後も、ずっと同じ事を続けているつもり。
 それは、擬似科学蔓延防止のため、「擬似科学的思考」をバカにし、「擬似科学」の説得力を落とそうとするコトなんだよね。


【まえがき】

 うだうだ心中を語っても何にもならないから話を進める。
 今回は「ニセ科学批判」の「ニセ科学的思考」について徹底的に話題にしようと思う。

 とはいえ、最初に言っておくけど、全ての人がそうだ、と言うわけじゃない。
 そして何を批判しようと、実際の所、ちゃんと分かっている人は言われなくてもちゃんとしているし、分かりたくない人は擬似科学信者と同様、分かろうとはしないだろうとも思う。

 そもそも、今の当blogにワザワザ足を運ぶニセ科学批判側の人ももういないでしょうし、そんな状況で批判しても自己満足にしかならないとは思うんだ。
 だけど、色々な方をお騒がせした自分へのケジメとして、きっちり書いておこうと思う。

 そしてそによって、1年前から背負っていた肩の荷を降ろしたい。

 私同様「ニセ科学批判業界」にモヤモヤしたものを持っている人の目に止まって、何らかのヒントを植え付ける事ができれば幸い。
 あと、「疑似科学」を主張する人へのツッコミ方についてのテキストして使っても可だ。

 万一「ニセ科学批判」の方の目に止まったら、そこで「誰に言っているのか明確で無い、藁人形だ」なんて定番のセリフで目をそらさないで欲しい。
 そういう風な考え方にすぐ陥っちゃう輩こそ、私の批判相手と思ってもらってもいいよ。


【「ニセ科学」の定義?】

 さぁ本題だ。
 さて、今回のメインターゲットは、前回の記事における『ニセ科学撲滅タイプ』だ。
 でも、「ニセ科学である事」自体も攻撃材料となっている、と言われても具体的にどういう事かピンと来ない人もいるだろう。
 だから、申し訳ないけど今回は「ニセ科学批判まとめ」をネタにして話をし進めたい。
 まぁ、業界内ではメジャーな存在のようなので、有名税ということで勘弁して欲しい。

 まず、このサイトで言っている「ニセ科学」の定義を示しておこう。
科学ではないのに科学を装っているもの

 さて、『ニセ科学入門』との違いがお気づきだろうか。

 入門では”見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの”、つまり「外からの視点」を基準にしているケド、こちらは”装っている”という「内面的な視点」に言及している。
 言うなれば、現象ではなく、動機の面を重視しているといったところ?

 話を進める前に言っておくけど、これは非常に難しいと思う。
 例えば、まとめには“何故ニセ科学を批判するのか”としてこんなフレーズが出てくる。
 『「科学ではないのに科学を装う」のは単純に言ってウソツキだからいけない』

 でもさ、例えば「間違い」と「ウソ」って外から正確に区別できるカナ。
 うっかりか意図的か、なんて当人の言い分を信じるしかないよね。

 第三者から見れば「間違い」も「ウソ」も一緒だぁ、なんて言う人もいるかもしれないけれど、それを言ったら、人間は「間違いばかり」の生き物なんだから「全ての人間はウソツキだからいけない」という結論に至ってしまい、特定のものに対する批判として体をなさなくなってしまう。

 外観より意図に注目する事でより批判したい、って気持ちは分からないでもないケド、果たしてそんなものが定義化できるのだろうか?

 ...という疑問を残しつつ、とりあえず先に進む。


【ウソツキだからいけないという動機】

 さて、「ニセ科学批判まとめ」における「何故ニセ科学を批判するのか」では、筆頭にこのような動機が述べられている。
 これぞまさに、「ニセ科学である事」自体を攻撃材料としているものと言えるだろう。
・「ウソはいけない」という動機
 「科学ではないのに科学を装う」のは単純に言ってウソツキだからいけないのである。
 これには幾つかの反論が考えられる。まず「何故ウソがいけないのか」という反論があるかもしれない。しかし、残念ながらそれは(論じたいのはやまやまではあるが)「論点のすり替え」であると言わざるを得ない。何故なら、少なくとも我々が住んでいる社会においては「ウソはいけない」というのが一般的な合意事項だからである
。  また、より現実的な立場から「許されるウソもある」という反論もあるかもしれない。確かにウソが許される場合もあるだろう。しかしそれはどのような状況でのウソなのかという事に強く依存する。つまり「許されるウソかどうか」は個別の状況を見て判断するしかないし、そういう特殊な状況はむしろ例外的である。従って、そのような特殊な状況であるという点が明確に示されない限りは「ニセ科学はウソであり、ウソは良くない」と判断するのが適切である。

 まず、この主張自体がグズグズ(きっぱり)。
 昔も誰かさんと同じような話をした記憶があるけど、改めて書いておく。

 「ウソツキだからいけない」と主張するには当然「何故ウソがいけないのか」を説明できなければならないはずだから、それを求めるのはむしろ極めて真っ当な問い。
 まぁ、根拠といっても『我々が住んでいる社会においては「ウソはいけない」というのが一般的な合意事項』という、あたかも小学校のHRレベルの事しか言えないからあんまり触れて欲しくないのは分かるけど、だからといって、真っ当な問いを「論点のすり替え」呼ばわりするのは、かなり理不尽よね。

 さらに、同じ口で「確かにウソが許される場合もあるだろう」なんて事を言う。
 おいおい、これって「ウソツキだからいけない」という主張の否定だよ(「ウソならばいけない」が真ならば、「許されるならウソではない」も真でなくてはいかん)。

 んで、『それはどのような状況でのウソなのかという事に強く依存する。つまり「許されるウソかどうか」は個別の状況を見て判断するしかない』と言っているんだから、『だから、一概に「ウソはいけない」とは言えない』というのが“論理的”な考察のはず。

 だけど、『“ウソは良くない”と判断するのが適切』というのは何が何でも譲りたくないもよう。

 そんなエゴを押し通すために潜ませた“まやかし”は、
 『「許されるウソ」は特殊な状況であり、むしろ例外的』
 という“決め付け”だ。

 それについては何の根拠も示されない。
 そもそも実際に「許されるウソ」がホントに特殊で例外的なのか、という事は調査しとらんだろうに。

 ...かように自分らの主張の説明責任を全く果たさないまま正当化しているくせに、相手には「そうじゃないケースであるなら、それを明確に示せ」と説明責任を押し付ける、ってのはねぇ...。

 小学校のHRレベルの薄っぺらい社会の解釈、そして根拠に欠ける決め付け、その程度のモノを並べ立てる時点でアレだけどさ。それで「それが正しいかは正直よく分からないけど、自分はそう思う」と素直に言うのであればまだ救いがある。
 なのに、平気で「適切」と言い切ってしまうところがスゴイ。

 これって、全く考えてないから滅茶苦茶になっているわけではないと思うんだよね。
 元の主張の欠陥に気付ける程度には頭は回るけど、問題はその後なんだ。

 欠陥を見つけた時に、もう一度しっかり主張を考え直すのではなく、なるべく主張を変えないよう場当たり的にその穴を隠す事を考えてちゃうんじゃない?
 んで、隠せればいいと思うから、水道管の穴を紙で塞ぐような事も平気でするんだな。

 その結果、全体像がバラバラで使い物にならなくなっているのに、視野狭窄に陥って穴の所しか見ていないから、当の本人は「上手く覆えたぜ」とご満悦。
 そんな感じじゃないかしら?


【「装う」の定義?】
 
 ひとしきり文句を言った上で、今度はこちらを考えてみる。
 ここでは仮に『「科学ではないのに科学を装う」のは単純に言ってウソツキだからいけない』という主張が正しいとする。
 では、それに沿って“ある対象”を「ウソつきだからいけない」と言うためには何が必要?

 そう。そのためにはその“ある対象”が、「科学ではないのに科学を装う」ものである、という事を明示できなくてはいけないわけですね。
 そのために必要なのが「定義」。

 んで、まぁ確かに「定義」と言っているのもあるんだけど、なんだかなぁ、って感じ。

「ニセ科学批判まとめ」では「科学ではない」は、それなりの(...とちょっと奥歯にものがはさまるが)規定が説明されている。

 しかし、「装っている」に関しては、案の定「判断はなかなか難しく、議論の余地があるところである」何て弱音を吐いている。
 だけどめげずにこう規定している。
まとめると「装う」とは以下の条件のうち「少なくとも1つ」を満たすものといえる。
全部を満たす必要が無いのは言うまでも無い。
1 情報の発信者が科学だと誤解させる意図を持っているもの。
2 通常の理解力と常識をもってしても科学であると誤解しうるもの。
3 実際に誤解した人が無視できない数存在すること。

 まず、軽いツッコミを入れておこう。
 本当に“言うまでもない”のなら、わざわざ「言うまでも無い」と言うまでもないよね。
 こういうのは、私みたいな意地悪が見ると、「言うまでも無い」と“わざわざ言う”のは、「聞くな(聞かれるとまずい)」という気持ちの裏返しじゃないの?って勘ぐる原因になる。

 で、実際にも私はこれを読んで、何で?って思ったよ。
 これって、性質が異なる要因の羅列だよね。
 ってことは「装う」って事についての統一的な基準は無い、って事になる。
 なんでそんなバラバラの事を1つの言い方にひっくるめようとするのか、その理由がさっぱり見えないというのが第一の疑問。

 それでも、「定義の範囲を多面的に絞り込むために」複数の条件を設定して、”全て満たすもの”という縛りをかけるならまだ分かる。
 なのに、ここでは逆に「全部を満たす必要が無い」と来るから『それって、何でもアリって事何じゃないの』って思わざるを得ない。

 どう考えてもご都合主義的なルールを「言うまでも無い事だ」と判断したのは、いったいどこのだれのどういう了見なのかしらん。

 本当は、各々が「装っている」と判断した“主観的理由”を羅列してみただけでしょ。
 それならそうとハッキリと「めいめいが勝手に判断している」と言えばいいのに、あたかも「条件」が存在するかのような口ぶりをするのは、かなり問題アリ。

 ...とひとまず総括的に言っておいた上で、個別にみていこう。


【情報の発信者が科学だと誤解させる意図を持っているもの、とは】

 最初の方で言ったように「意図」に踏み込んでいるよね。
 しかも、「誤解させる」と言うが、これまた微妙。
 例えば、当人も本気で科学的だ考えている場合、その人は決して「誤解させよう」と思っているのではなく、「正しいことを教えてあげよう」と思っている事になる。モチロン、中には自分自身科学的でないと知っているうえで、あえて誤解させようと狙う輩もいる。
 では、果たして前者と後者が区別できるだろうか。
 まぁ、当事者が暴露本を出すか、誰かテレパスでもいれば別だけどねぇ。
 ...もしかして、テレパスがいるの??

 例えば、シンプルに「当人が科学的だと主張するもの」とした方がまだ弁別の基準になる。
 でも、それをしなかったのは、(「誤解させる」という表現により印象操作したかったのかもしれないが)あえて明確でない基準にしておいて、恣意的に適用範囲を広めれるようにしたかったのではないのかな?

 まぁ、いずれにしても、少なくとも「この条件に合致しているかどうか」を確認するのは非常に困難な条件だよね。


【通常の理解力と常識をもってしても科学であると誤解しうるもの、とは】

 これはほぼ「ニセ科学入門」の規定をそのまま持ってきたものだよね。
 だけど、前回、前々回も言ったけど、『啓蒙タイプ』で明確な定義が必要でないからこそ、このような“感覚的”な「概念」で十分なんだ。だけど、定義としては使い物にならないんだよ。

 本当に条件だ、と言うのなら「通常の理解力と常識」ってのはどの程度で、それがどんなものを科学であると誤解するか、という事をまず調べてなきゃいけない。
 でも、そのような七面倒くさい事、絶対やっていないでしょ。

 やってもいないならできてないはず。
 できてないことを、あたかも条件にしているかのように言うのは非常にずるい。


【実際に誤解した人が無視できない数存在すること、とは】

 これは一番ヒドイ”条件”だ。
 無視できない数っていくつ?っては、小学生でも疑問に思うだろう。
 絶対数?割合?そもそも「無視できない」と判断するのは誰?
 中には、「“アリの一穴”って事もあるから1人でも無視できない」って奴もいるんじゃないか?

 これぞまさに、伸び縮み自在な物差しの典型だ。


【満たすことの出来ない条件達】

 結局のところ、「以下の条件を満たす」と言っても、1、2はそもそも満たすかどうか確認する手段が無いし、3はどのくらいで満たすと言えるのかという肝心の所があいまい。
 ...どれも全く使い物になりませぬ。

 自分達が「ニセ科学」と呼んでいるモノはこのような条件を満たす、と言い張りながら、どう見ても「満たすことが確認できない条件」を平気で並べる様は、病的な感じすらする。
 ABOFANクンの問題の1つに、自分の主張を説明する際の「性格」や「差」という言葉について、定義を曖昧にしたまま、伸び縮み自在な物差しとして好き勝手に自己正当に使う、というものがあると思うが、それと一緒じゃなかろうか。

 実際は“感覚的”にしか「装っているかどうか」判断していないよ、と素直にそう言えばまだ許せる(まぁ、ニセ科学信者には客観性だなんだ文句を言う人達としてはどうかと思うけど)。
 だけど、あたかも「条件と照らし合わせて“装う”と判断している」かのような言いぶりをしちゃうのはいかがなものか。

 自分たちは実際にはやっていない事をさもやっているかのように“装って”正当化しておいて、その口で「科学を装っている」事を非難してもさぁ...。

 なお、この定義(?)の下に添えられたこれは明らかに蛇足。
抽象的な話ばかりでは何なので「装っている」と看做せる例を挙げる。
* 用語の混乱
* 既存理論の否定もしくは超越
* 体験談の極端な重視

 どれもが、定義で挙げている1~3のいずれにも直結しないのですが...

 てか、これは「装っている」のではなく、むしろ「科学ではない」と看破できる例の話じゃないのか?「用語の混乱」を問題にしようと言う人が「自分で設定した条件の混乱」起こしてどーすんの。

...まぁ、多分ここで言う「装っていると看做」は「ホントは科学ではないと見破れる」という意味で使っているんだろうけどね。でも、直前まで「装っていると言える」条件の話をしていたのに、いきなり「科学とは言えない」条件の話になってしまうのは、やっぱり“混乱”と言わざるを得ないんじゃないカナ。


【グレーゾーン問題】

 あと、これにも突っ込んでおきたいんだな。
 
 「グレーゾーン問題」は、「科学-非科学」の境界線が引けない、という話だ。
 これを持ち出す以上、「科学ではないのに科学を装っているもの」の前半「科学ではない」も実は弁別できない、という話になると思いきや、このような事を述べる。
グレーゾーンがある(科学と非科学に明瞭な境界線は無い)からといって、科学と非科学とが区別できないと考えるのはおかしい。白と黒がグレーのグラデーションをはさんで連続的につながっているからといって、白と黒が同じ色だという事にはならないし、もっと言えば、真っ白と明らかなグレーも違う色だし、明らかなグレーと真っ黒も違う色である。
 
 そもそもグレーゾーン問題は、連続的な変化の中で区切るのが難しい、という話である。
 そこで「明らかなグレー」という概念を持ち込むことが適切だろうか。
 いったい、どうやったら「明らかなグレー」とそうでないものを区別するのだろう。
 グレーゾーン問題の話の中に、新たなグレーゾーン問題を持ち込んでしまっている...。

 そもそも、「明らかなグレー」との比較ばかりしているが、例えば「明らかでないグレー」ってのがあるとして、それと真っ白だって「違う色」だろう。
 なのに何故、わざわざ「明らかなグレー」の話ばかりしたがるのか...

 グレーゾーン問題を持ち出した上で、「それは解決不能であるため、便宜上明度10%未満を黒、明度90%以上を白とし、残りはグレーと定義する」という話になるのなら分かる。
 実際科学では線引きが難しい場合そういう考え方をする。

 しかし、「真っ白」とか「明らかなグレー」とか、余計な概念を挿入してこねくりまわし、一体何を言いたいのだろう、と疑問に思ったら、こんなコトを言い出す。
「ニセ科学だ」として批判の対象となっているものは、見かけと実態の間に明らかな差異があるもの、つまり主張している色と実際の色が明らかに違うものである。

 ああ、コレの伏線なのね、って感じだけど、はっきり言ってこれも“まやかし”だ。

 さっきまで、「科学-非科学」のグレーゾーンの話をしていたはずなのに、ここで「見かけ」という話をこっそりと持ち込み、しれっとそれと比較してみせてしまうのだ。

 確かに色であれば「波長」という客観的な指標で量的に差異を比較する事も可能でしょう。
 でも、彼ら自身は「科学を装っている」について、「科学ではない」とは異なる判断基準を掲げており、「どのくらい科学でないのか」と「どのくらい科学に見えるか」ってのは本来質的に異なるはず...。
 なのに、あたかも量的な比較ができるように”すりかえ”ちゃっているんだね。

 例え話にケチをつけるのは野暮だろうけど、ここまで辻褄が合わなければ、例え話として失格。

 悪いけど、こういう”すりかえ”の例え話で丸め込もうとするのは、それこそ「ニセ科学側」の常套手段ではなかろうか。例えば、かの能見氏あたりは、よくそういう”まやかし”を好んでいた。

 「適切でない説明でそれが正しいと信じさせようとするニセ科学」を批判している人がこれじゃぁいかんだろう。

 そして怖いのは、これを読んで「なるほど、そういうことか」と上っ面で分かった気になる人が出てくる事。
 そういう人は、正しいと分かった、と思い込んでいるからそれを否定されると頭にくるんだけど、反論しようとしても実際はよく分からないままだから説明ができない。でも、「本当は分かっていない」って事を自分では分かっていないから、自分のモヤモヤの原因をすぐ相手に求めたり、自分が正しい事を仲間内で確認しあおうとする。

 ...そうして、グズグズになっちゃうのよね。


【ニセ科学の定義の必要性とは】
 
 最大の疑問は、ここまで無茶な定義を言い張って何の意義があるのか、という事だ。

 それこそ、希薄な根拠で「ウソツキだからいけない」などと幼稚な主張をしても、批判者の質が低い印象しか与えないんじゃないかな。

 中には「社会規範」を持ち出して高尚さを装った人もいたけど、結局は同じように”メモリが伸び縮みする物差し”の如く社会規範を(都合よく)解釈しているだけにすぎなかったしね。

 そもそも『「嘘はいけない」は社会規範』なんて本気で検討すれば、倫理学の本一冊でも足りないくらいの難しい話題なんだよね。
 それを直感的に総論的に決め付けて、そのくせ根拠としては詐欺罪とかの各論しか提示しない。それならばと、その総論に否定的な各論を提示すると、「そういう意味じゃない」とふてくされ、さらには逆ギレする。ブツブツ...

 「科学は間違うが、ニセ科学は間違わない」と菊池先生は言ったが、自分に都合の良い各論しか認めないで「間違ってない」といい続けるって、いったいどの面さげて「反証可能性」の話を偉そうにするんだか...。

 ...まぁ、いいや。
 結局、「ニセ科学の恣意的な認定」という非難の火種をあえて抱えたにも関わらず、その無理を通しても説明力に欠く主張しかできないわけだよね。
 私だったらそんなのさっさと見切って捨てちゃうけどさ。
 プライドが高いと一度口に出した以上捨てられないのだろうかね。


【定義とは何か】
 
 そろそろまとめに入ろう。

 ”感覚的にしか判断できない内容”をてんこ盛りにしたものを、定義とは言えない。
 その辺がきちんと消化できてないないくせに、「ニセ科学」に対してはそれこそ「定義の曖昧さ」や「言及範囲の不適切性」を問題として取り上げるわけだから、モヤっとくるんだよね。
 
 そして、定義をするには、どうしても線引きする必要がある。
 「線引き問題」を悩ましいとウダウダ言っている限りは何も出来ない。
 できないならできないで、出来る範囲の事をすればいい。
 「ニセ科学だからダメ」と言いたいがために「定義できている」かのように装うのはアウト。

 一応フォローすれば、この「ニセ科学批判まとめ」というのは、その名の通り「まとめ」だ。
 定義になっていないものをいくら集めても、まともな定義になる訳がないのだから、その編集者の問題と言うよりも、まとめの対象となった「ニセ科学批判者」の怠慢だろう。

 とはいえ、その定義に値しないものを列挙するに留めず、あたかもそれが妥当な定義であるかのように言いくるめようとしてしまったところは、やはり編集者の問題。

 そもそも、まとめる事と「定義する事」は全く違うんだよ。
 「色んな人が『ニセ科学』と呼んでいるもの全てを包括する」のが定義じゃない。全てを入れ込もうとするから、境界が曖昧なまま肥大する「定まらない義」にしかならない。

 前にも言った気がするけど、「他人もそれを特定できる」事が「定義」の意義なんだ。
 特定できるようにするには、どうしても明確な線引きをしなくてはならない。
 『ああ、「線引き問題」だ悩ましい』と逃げている限り、定義はいつまでたってもできない。

 問題は“自分が使う時は”どこに線を引きたいかであり、自分自身がその境界線を守れば何の問題も無い。もし、その定義で不都合がある人がいれば、それはその人が別な定義をすればいいだけの事。

 各人がそれぞれちゃんと明確に「定義」を定めていれば、もしかしたら相互に共通するものが見つかるかもしれない。その時にそれを「共通の定義」と定めれば良いかもしれん。
 ...でも、少なくとも現状では、その段階ははるか遠くだ。

 まぁ、編集者さんが「私はまとめたいだけだ」と言うのであれば、「自分がどこに線を引きたいか」を考えろ、と要求するのも的外れになろうけど、それならば『各人のあやふやな思惑をまとめ上げても、そんなものは「定義」とは言えない』という事だけ分かっておいて欲しい。


【ダメ押し】

 「ニセ科学批判まとめ」を見ると、「ニセ科学批判批判」対策としての理論武装を狙っているのがアリアリと分かるのだけど、残念な事にこれまで述べたように、むしろ、逆のベクトルに進んでしまっている。

 おそらくは、自分達がかかわっている「ニセ科学批判」に対し、(クリティカルシンキング的な意味での)批判の目で見ることができないからこうなってしまったのだろう。
 
 批判の目で見、問題を見つけ、それの納得いく解決方法を見つけようとすれば、本当に強固な理論武装にもなったんだろうけど、作る人も評価する人も「ニセ科学批判側は正しい」という前提を確証する事しか考えてないとそれができない。
 そして、その確証を高める「肯定」である事だけに注目して飛びつき、理論の全体の支離滅裂さに気付かないのだ。

 それと、自分の正当化に都合の良い事ばかり前面に出し、都合の悪い部分は「悩ましい」とだけ言っておいて知らんぷりってのはダメでしょやっぱり。

 あと、自分でも良く分からない事を、良く分からないまま正当化に使用するのもダメダメ。
 そんな事を自分に許し続けると、結局はこんな風になる。
・ 僅かな証拠、不確かな証拠により一点突破。
・ 自分の知っている事だけで強引に話を進めようとする。
・ 「知っている事」は「解決されている事」だと錯覚する
・ 説明無しに自分の前提を正しいと受け入れさせようとする。
・ 説明しなくても肯定してくれる人に盲従する
・ 仲間内でしか話ができない
・ 自分が考えてないことを言う人を、すぐ「モノを知らない」扱いしたがる。
・ 相手を見下す態度を取ることでしか、自分の正しさを示せない。

...そう、これは「ニセ科学」を信じる人達にもよく見られる特徴なんだな。

 「ニセ科学まとめ」でも、このいくつかを匂わす言い回しが散見されるし、この手のニセ科学批判の論者とニセ科学の信者の口喧嘩を見ていると、「どっちもどっちだろ」って思うよ実際。
 

【最後に】

 「ニセ科学である事自体を問題視」したがる人の「ニセ科学否定への執着」を見ていると、『ニセ科学入門』で言うこんな人達の話を思い出すんだな。
市民運動家には、原発の悪い点、大企業の悪い点、大規模開発の悪い点、そういうものを提示してくれる説は信じて、そうでない説は信じないという傾向がどうしても見られるのだが、イデオロギーに合う説だけを受け入れるなら冒頭にも書いたようにルイセンコ事件の縮小再生産版みたいなものである。

 『買ってはいけない』が昔大流行したけど、今は下火というか「ネタ本」的に捉えている人も少なくないでしょう。言っていることは完全に間違いじゃないんだけど、「危険の可能性」に対する過敏さについていけないのが正直なところ。

 「ニセ科学」を問題視する人が、「どんな問題があるか」、「どんな問題の可能性があるか」ってのを知って欲しい、って気持ちはよく分かるけど、「その問題が全体の中でどれぐらい生じているか」、「その問題がどのくらいの可能性で生じるか」というバランス感覚も必要じゃないかな。

 特にネットだと、「自分が見たい情報」だけを一気に集める事ができるから、そういったバランスを読み誤りがち。バランス崩さないように工夫するか、少なくともその危険性を自覚して慎重になるべき。

 「ニセ科学批判」ではなく「ニセ科学蔓延防止だ」と言った人がいるけれど、ホントにそう思うのなら、『買ってはいけない』の二の舞にならんようこの辺も考えてみたらどうだろうね。


 ...と、「擬似科学的思考批判者」である私が偉そうに言ったところで、終了。


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