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補講:社会における科学的方法の困難さ [他ブログいっちょかみ]

前の記事ではしょった部分をまとめて記事にしておく。


【心理学から見る科学的知見の限界】

 心理学なんかやってて思うのは、人間というのを科学的に扱おうとすると、非常に手間がかかるって事。
 その最も大きな原因は「個人差」なんだよね。

 自然科学分野では基本的に“無関係なノイズ”を徹底的に排除する事で仮説を評価します。飼育環境を制御し個体差を小さくしたモルモット、極限まで精製した薬品、無菌室、遺伝子操作、そして精緻な計測機器とテクノロジーを駆使した高度な観察機材...
 条件が統制できればできるほど、精緻な仮説が検証可能になる。

 ...でも、相手が人間であれば、そんな統制は技術的にも倫理的にも不可能。
 クローンで個人差のない個体を複数得る、なんて事もできないよね。

 だから、心理学ではノイズの排除ではなく、ノイズを相殺する方向で考えるのだ。
 つまり、個人差を個人差で打ち消させ効果のみを取り出そうとするわけ。
 でも、個人差による変動幅が大きいから、被験者が少ないとすぐ「偶然の範囲内」と言われてしまうから、必要な被験者数というのは結構な数になる。

 んで、そこを頑張って何らかの「科学的知見」が得られたとしましょう。
 そしたらその知見を実社会にそのまま活用できるか、っていうとそうではないんだな。

 何故か?
 科学の目玉である「再現性」は、「特定の条件下」でこそ発揮されるから。
 心理学における「特定の条件」とは、“物量作戦で内因・外因の影響を相殺して捉えられる場合”なんだよね。

 だけど、実際には個性や環境要因がバリバリ効いている状態であるわけで、そうなると、安易に「再現性」が保証される、なんて言えない。

 あと、一般化された理論が特定の個人に還元できるとは限らないという問題もあるよ。
 例えば「10人に7人がそうである」という知見から、集団内にどのくらいにそんな人がいるかは予測できるけれど、目の前の人が7/10の人か3/10の人かなんて、改めて確かめてみないと分からない。


【心理学だけの話ではない】

 こういった心理学の実社会での適用の問題は、実は自然科学であっても同じ。
 統制された条件下による科学的研究で確固たる知見が得られても、それが科学技術としてすぐ活用できるとは限らないんです。
 それでも、相手が機械や植物や動物の場合、ある程度人間の都合で限定した条件を作り出したり、そのもの自体に統制のための細工を施す事は可能だから、その分人間相手よりかは工夫の余地は大きいかもしれない。

 一方、同じ人間を扱う医学あたりは、心理学の事情に近いんじゃないかな。
 「特定の人から採取したシャーレの中のガン細胞を確実に殺せる」方法を発見したからといって、「様々な個体差のある人間の安全性を確保しつつ体内で活動するガン細胞を殺せる」ようになるとは限らない。

 「一般化された理論を個人に還元できるとは限らない」という問題も心理と同様。
 医者も「なるべく治る可能性の高い治療法」を施したいんだろうけど、ある方法で目の前の患者が治るかどうかはやってみないと分からない。だからこそ、一度処置したらしっぱなしではなく「経過観察」をするわけだ。
 「正しい治療法」なんてどこにもなく、上手くいって初めて「結果として(その人に対する)正しかった治療法」が分かるだけに過ぎない、ってのが実状でしょう。
 まぁ、強いて云えば「ひとつの治療に拘らず、経過次第で対応を変える」のが、個性を持つ人間の体に対する「望ましい治療法」なんだと思う。

 同様の事は、前の記事で触れた「科学的エビデンス」とやらにも言える。
 まず「科学的なエビデンス」をどうやって得るか、というところから考えてみよう。


【自然科学的方略】

 自然科学的手法で考えるならば、全く同じ「社会」を2つ用意して、一方には施策Aを施し、もう一方には何もしないで、結果を比較すれば良い。
 でも、それは無理だよね。

 じゃぁ、例えば朝鮮半島の北部では施策A、南部では施策無し、みたいにして比較してみてはどうでしょう?
 そもそも、初期条件が違いすぎるわけだから、差が見られてもそれが施策の差であるとは言えませんよね。

 例は極端だったかもしれないけれど、多かれ少なかれ「初期条件の差」という問題は、「科学」の前に立ちはだかる。「似たようなもの」を対象にしようとしても、何が似ていれば「初期条件の差」が無いとみなせるのか、って事から分からない(面積?人口?気候?1人当たりの所得?物価?離婚率?)。

 ちなみに、“科学的な方法としての妥当性評価”として、クックとキャンベルって人が「科学的方法尺度」(妥当性が低い順にレベル1からレベル5まである)というものを提唱しているんだけど、それを参照すれば、この方法は『レベル3』。

 クックらによれば、『レベル3』は最低限解釈可能なデザインとされていますが、実験条件と統制条件が等価ではない事の問題は当然指摘されています。


【縦断的検証】

 「同じものを2つ」が無理なら、1つのものを「実施前」と「実施後」で比較したらどうでしょうか?

 残念ながら、「科学的方法尺度」では、この方法についてさっきより低い『レベル2』、“不適切なデザイン”とされています。

 これは、「病気の人がいました、ある処置をしました、治りました、だから処置には治療効果があります。」と言うのと同じですからね(ニセ科学批判に興味がある人であれば、何故問題かはすぐ分かるでしょう)。
 これで得られた結果は「科学的エビデンス」というよりも、旧来の「事例的エビデンス」の範を出ないものだと考えられます。


【横断的検証】

 では、心理学でよく使う手法ではどうでしょう?
 複数の自治体をランダムに2つに分け、片方で施策を実施し、もう片方で実施しない事にして、変化の違いを比較するわけだ。

 対象とする自治体はかなり多くないと意味がないからお金はかかる、そもそも各自治体の承諾が取れるかもわからない...といった懸案事項は多々ありますけどね。
 ただ、もしそれができれば「科学的方法尺度」でも、『レベル4~5』、最も優れたデザインと評されるもよう。

 ですが、私は素直に『レベル4~5』を当て嵌められないとも考えています。
 何故なら「社会」を対象にする場合、どうしても「盲検法」の実施が困難、という問題があるからなんですね。

 医療では薬剤の効果を検証する際、薬投与群と偽薬投与群で比較するのが一般的だけど、その際、被験者には自分がどちらの群に属するか知らせない、といった「盲検法」の手続きが要求されています(さらに、投与側もどちらか分からない「二重盲験法」もある)。
 それは「情報による心理的効果の差」があれば公平に比較できないから。

 でも、個人ならいざしらず、「社会」相手はとなると「盲検法」はまず不可能。
 そんな大がかりな実験なら、当然マスコミも話題にするし、そもそも、自治体はそれを執行するために、内容を知っていなくてはならないし、住民に黙っているわけにもいかない。
 となると、出てきた結果が「施策の効果」なのか、「施策実施という情報による差」なのか分からなくなる。

 つまり、「社会」相手の実験では、対象とする「社会」に対し情報を遮断できない限り、科学としては見過ごせない欠陥を含まざるを得ないわけデス。
 まぁ、昔のソ連とか、北の将軍様の国とかなら可能かもしれないけどね...


【効果の評価】

 せっかくだから、ついでに「科学的方法尺度」に基づく施策(プログラム)効果の評価の方法について紹介しておきましょう。
『効果がある』
少なくとも2件のレベル3~5の評価に置いて統計的に有意な望ましい結果が得られ、全ての証拠のうち大多数が有効性を示す

『有望である』
1件のレベル3~5の評価に置いて統計的に有意な望ましい結果が得られ、全ての証拠のうち大多数が有効性を示す

『効果がない』
少なくとも2件のレベル3~5の評価に置いて統計的に効果がなく、残る証拠の大多数も同じ結論を支持

『不明』
上記3つのどれにも分類されないもの。


 ところで、『効果がある』基準と、『効果が無い』基準をもう一度読みかえしてみてください。

 「『効果がある』とは言えない」=『効果がない』ではないんですね。
 一見、『効果がある』と『効果がない』の条件は背反しているように見えるかも知れませんが、そうではありません。例えばレベル3~5の評価が0件である、あるいはレベル3~5の評価とそれ以下のレベルでの評価が共通しない、という状況では「『効果がある』とは言えない」すなわち『効果がない』ではない事が分かると思います。
 じゃぁ、そんな場合どう判断するか?

 そう、『不明』、つまり「分からない」とするのです。


【不明の価値】

 実生活で「科学的」に思考するには、この『不明』が重要なんです。
 それが無ければ、「No」は単に「Yesではない」という“消極的な意味”しか持たないし、「Yes」だって「Noではない」という“消極的な意味”しか持たない。
 「不明」という領域を設ける事で初めて「Yes」や「No」という判断に、“積極的な意味”を持たせる事ができるのです。

 前の記事に「正しいかどうか判断する前に、正しいかどうかを判断できる状況かを判断する事が必要」と書いたけど、まさにこの事を指す。
 判断材料が不十分な状況で無理に判断するのは科学ではなく博打です。

 このような考え方は、科学を使って実生活で仕事をする上では「必須」であると私は捉えています。

 とはいえ、皆さんの中には「科学の事は結構理解しているつもりだけど、そういう話を聞いた覚えが無い」と思う人もいるかもしれません。
 実は私も、勝手に「科学の師匠」と思っている人に出会うまでは、大学でも一応科学っぽい事はやっていたつもりですが、この事はあまり考えたことはありませんでした。
 まぁ、そういう人のためにもう少し詳しく説明してみます。


【実験の場と、実生活の場の違い】

 「科学」を『実験の場』と『実生活の場』に分けて考えてみましょう。

 『実験の場』では、条件を統制して“より理想的な状況”の中、物事の発見に努めます。
 そのような環境においては、明確に「ある」が示せなければ、「ない」と判断してもあまり間違いがありません。
 そして、おそらく多くの人が認識している「科学」とは、この『実験の場』について語られているものではないのかと思います。

 一方、『実生活の場』では、既に述べていますが、条件の統制が難しいわけです。
 そうなると、「ある」としても明確に出るとは限らないし、「ない」としても偶然によりあるように見えるかもしれません。
 そのような環境で、「科学的」に判断しようとするなら、十分な根拠が無ければ「ある」も「無い」も外す危険が高まります。そのため、“根拠”が足りなければ「分からない」と判断を保留するのが安全なわけです。


【医療という『実生活の場』】

 分かりやすい例として、「医者」を取り上げましょう。

 「あなたはガンです」という判断が間違うのは困りますが、「あなたはガンではないです」という判断が間違うのも、同じくらいかそれ以上に困るでしょう。
 でも、「ガンじゃないとは言えないから、ガンだ」という判断では前者のミス、「ガンとは言えないから、ガンじゃない」という判断では後者のミスの危険が高まります。
 だから、どちらかの判断を積極的に支持できるレベルの情報が揃っていない状況ならば、「分かりません、もう少し詳しい検査をしてみましょう」と判断するのが、間違えないためには必要なんです。

 これが「医学」いわば『実験の場』であるなら、「開いてみてガン細胞が見つかればガン、そうでなければガンじゃない」とシンプルかつ確実な判断ができます。
 でも、「医療」という『実生活の場』ではそんなこと無闇にできないですよね。「検査結果」という間接的な情報を手掛かりに判断しなければならず、しかも極力間違えないようにしなくてはならないから大変なんです。

 また、そこに「個人差」という面倒な要因もからんでいるのも忘れてはなりません。
 ある著名な心臓外科の話で、「何人もの心臓手術をやってきたけれど、同じ形の心臓は2つとして無かった」というのが印象に残っています(言われてみれば当然なんですが、実際に見ていないと人体模型や、図版といった「画一的なもの」を頭にうかべてしまいます)。

 で、「科学」ってのは「個人差」はむしろ除外する方向で考えるわけですが、『実生活の場』においてこの「個人差」は無視できません。
 そこを上手く処理できるのは、「経験」だと考えられます。
 医者の例でいけば、実際に症例を扱った事のない新米医師と、沢山の患者の様々な症例を扱ってきたベテラン医師とでは、同じ量の「知識」があっても、適切な対応を施すという場面では格段の差が出るわけです。

 ただし、それは「経験」が「科学」を上回る、という意味ではありません。『実生活の場』で「科学」を効率良く適用するには「経験」も必要だというコト。

 「経験則」だけではダメ、かといって「科学」だけでもダメ。両者を両輪として上手くできるかどうかは、『個人の資質』に負うところになっちゃうかもね。
 間違っても『科学であれば誰がやっても同じ』なんて思わない方がいい。


【まとめ】

 さて、「科学的エビデンス」に関する総括は、前の記事に書いたので、見落としていたら読み返してみてクレ。ただし、私の評価が適切か、という点については疑ってかかってくださいね。

 繰り返し同じ事を言うようになるけれど、『実験の場』の論理をそのまま「社会」、つまり『実生活の場』に持ち込んでも上手くあてはまらない、って事は、『「科学」を「社会」で活用しようとしている人』にとっては「ありきたりの事実」でしかありません(多分)。

 でも、その事実は、一般の方や科学者(研究者)という両極端の層には、あまり認識されていないんじゃないのかな、と思う事がままあります。
 ただ、それはその人達の「思慮が足りない」ってわけじゃないと思うんだね。
 『実験の場』が活動の拠点である科学者、そして別に科学で飯を食っているわけではない一般人の方にとっても、そういうのは「関係無い世界の話」なわけで、認識されていないのは、認識する必要が無いからなのでしょう。


 だけど、例えば「ニセ科学」というモノをネタにしつつ、科学を根拠に社会を語ろうという場合、それは『実生活の場』の話になります。
 その際は、今回お話したような事を、意識的に認識して欲しい、なんて思います。
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