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効果がある事を”信じた”ままではいけない [他ブログいっちょかみ]

 前回述べたのは、あくまで「ニセ科学入門」に対して、メカAGさんの主張がきちんと噛み合っている(反論として成立している)事を示しただけであり、結論までメカAGさんに全面同意するわけではない。

 例えば、私は「疑似科学批判」が疑似科学が引き起こす事件の防止に”なんら”成果を上げないとは思わない。
 とはいえ、それはあくまで私の個人的な心情でしか説明できない事は分かっていて、確たる根拠は”まだ”無いのは確かだから、メカAGさんに反論できない(まぁ、「ニセ科学批判」者の代わりに反論しようとも思ってないわけだけど)。
 
 でも、それは私だけではないだろう。
 「ニセ科学批判」は「ニセ科学の蔓延防止」に有効か、と言われてちゃんと答えを導ける人はいるだろうか?
 ...という所から今回は話を始める。


【エビデンスによる評価】

 私と同様に『分からない』と言う人が殆どだと思うけれど、中には「個人的経験として効果はあったよ。」という人もいるかもしれない。
 しかし、「個人的経験」には、ファクターの混合における誤解(勉強をして、合格祈願をしたら大学に受かった。だから、合格祈願の御利益はある)や、レアケースを普遍的と解釈する認知バイアスの危険性も高い事を忘れてはならない。
 それを忘れて安易に証拠と考えてしまうのは「ニセ科学を信じる」人と何も変わらない。
 「効果がある」と思いたい人も、「効果がない」と思う人も、それぞれ自分の思惑を支持する事柄を過大評価し、支持しない事柄を過小評価するものだ。

 それを無理に押し付けようとすると、あとは泥仕合になるだけ。
 最後に声のでかい奴が残るから、「無駄な事業がいつまでも続けられて金をドブに捨てる一方で、必要な事業がいつまでも始まらない」と言う事が生じてしまうわけだ。
 
 そこで最近は、『科学的エビデンスによる評価』が浸透しつつある。

「有効な公共政策や制作実務は科学的エビデンスに基づいていなければならない。これは医学や社会の向上に尽力するその他の分野で取られているアプローチである」(引用:エビデンスに基づく犯罪予防 (財)社会安全研究財団)。

 「科学的エビデンス」というのは、いかにもお役所が好きそうなカタカナ用語使用で好きじゃないんだけど、要は「何が有効で、何が無効で、何が有望か」を、科学の方法論的に妥当な(客観性や論理性の担保)評価方法による”証拠”で判断しましょうという事だ。


【エビデンスによる評価か必要か】

 とはいえ、『ニセ科学批判のニセ科学蔓延に対する有効性を科学的エビデンスで示せ』と言われても、金も時間もかかるわけだ。

 でも、現在「ニセ科学問題」にコミットしている人達は、正直そこまでする気は無いんじゃないのかな?(おそらく、菊池教授ですら。そこまでするぐらいなら自分の研究をやるだろう)
 あ、でもapjさんだったら、上手く焚きつければやってくれるかもしれない

※ なお、この観点に立てば、メカAGさんも「効果なんてない」と言うためには、無効であるエビデンスを示すのが必要であるとも言える。
 

 なお、誰も検証をしない事をことさら非難する気はない。
 前回述べた菊池氏のスタンスから考えれば、「ニセ科学批判」とは本来
『もしかしたら、ニセ科学の蔓延が防げるかもしれないからやってみよう』
 ぐらいの目論見であったはずだ。

 そのぐらいの動機付けなのだから、もし「コストを大量に消費して立証する」か「止めるか」のどちらかを選らばなくてはいけないとすれば、多くの人が「止める」を選択するだろうし、それは別に不思議でも、不誠実でもないと思う。


【心に置いておくべき問題】

 「効果があると信じている」事と、「効果がある」事は別。
 「効果がある」事と、「効果があるように見える」事も別。

 ...なんて言うと、まさに「ニセ科学」を信じる人への批判そのものに聞こえるかもしれないけど、実は「ニセ科学批判」をしている人にも認識して欲しい事ナノダ。

 「誰も効果を実証しないのはしょうがない」というのはいいとしても、だからといって「だから効果は実証された前提で考えよう」なんてのはあり得ない。

 実証しなくてもいいけども、その代わり「効果は実証されていない」事は常に認識しておく事が大切。
 というのは、そういった認識の欠如が、時たま(しばしば?)ニセ科学の批判の現場で、「思想の問題」を引き起こしていると思えるから。

(その『思想の問題』は、「ニセ科学」を批判している時よりも「ニセ科学批判批判」に対処しようとする時に顕著に現れると思う。)
 

【効果があると信じる事の問題】

 ニセ科学批判を批判されると、すぐ「こいつはニセ科学の蔓延を許す奴だ」的な決め付けをする人がいるよね。だけど、それって「ニセ科学批判にニセ科学の蔓延を防ぐ効果がある」という前提が成立していなければ言えない事じゃない?
 病気でホメオパシーに手を出したのを見かねた人が「それはやめた方がいいよ」と言ったら、「あんたは俺に死んでもらいたいのか」と言い返すようなものである可能性があるんだもの。
 
 「何もしていない奴が横から口を出すな」的な反応もあるよね。
 でも、「確かに自分は何かをしているかもしれないけど、それは全部的外れな可能性もある」という意識が無い。あるいは「何かする事でかえって悪化する」という事もあるかもしれない。そういうのも明らかでないうちから、そんな偉そうな反応を平気でしちゃうわけだ。

 「自分達は、被害者の事を思ってやっている」
 それは多分ウソではないだろうね。
 私ですらど、可哀想、なんとかならんもんかと思うもの(少しは)←少しかよ
 だけど、それを理由に自分を正当化するのは止めてほすぃ。
 だって、「被害者のためになっているか」は分からないんでしょ。
 別に「被害者のためになっていない」と言う気は無いけど、気持ちの問題。
 そもそも、「被害者」をネタにして、自分を正当化したり、相手の不当さを訴えたりするのは、”被害者の盾”になっているフリをして、実は被害者を盾にしているだけの非常に邪悪なやり口じゃないの?

 ついでに、「ニセ科学の現場」として被害者の窮状を訴えるのはいいのだけれども、その現場に”美化した自分”をはめこむ前提で「現場」を語らないで欲しい。

 どうしても、それをしたいなら、どうぞ時間と金をかけて「効果を立証」してからにしてくださいな。

 認識不足がどれだけ「ダメな応答」を引き起こしているか、挙げればキリがないのでこの辺にしておきますね。


【「カルト集団」呼ばわりは揶揄か】

 メカAGさんは「カルト集団に見えるよ」なんて言っているけど、揶揄でもなんでもないと思う。
 私も同じようにapj氏に対し「市民運動みたい」って言った事あるし。
 だって、「ニセ科学批判にニセ科学の蔓延を防ぐ」という、(まだ)根拠が無いお題目を大義名分にしちゃって、他者を馬鹿にし、被害者を利用する事を平気でやっている現状を見ると、そうとしか言えないんだもの。

 もちろん、そんな無分別な奴はごくごく一部なのかもしれないけど、それをたしなめる身内もほとんどいない状態じゃない?
 自浄作用が無く、一方向に走り出したら止まらない、止められないのもカルト、市民運動、あるいは前に紹介した「権威主義」と同じ。

 そんなものと同一視されたくないなら、話は簡単。
 そう言われる理由となる『思想の問題』に気付いて直せばいいだけ(少なくとも私は気付ける程度に説明していたと思うケド)。そうすれば、例え1人が「カルト」呼ばわりしても、誰も認めない。

 ...でも、某女帝サンあたりは、すぐに「あんたこそ、市民運動と同じだ」とか「あんたこそカルト集団と言わざるを得ない」と威勢良く言葉は返すけど、その後が続かない。

 そのあまりの見切り発車っぷりは、ここまでいくと微笑ましい。

 何で「市民運動」呼ばわりされるのか分からないから、どう説明すれば相手を「市民運動」呼ばわりできるかも分からない。分からなければ余計な事言わなきゃいいのに、とにかく言っちゃうから、かえって底の浅さが露呈する。ついでに、分からないから治らない。むぅ

 同じに見えてしまうところというのは、そういった突っ走り方。
 菊池教授が挙げた「願望充足」、あるいはメカAGさんの挙げる「思考停止」といったモロモロの『思想の問題』が絡み合っている。
 だけど、そういう事は、「ニセ科学」を「科学でない」だけでしか評価できない人には、それがさっぱり分からないのかもしれない(分かってやってるなら、極悪だけど)。


【同士討ち?】

 私には、「ニセ科学批判批判者」なるカテゴリーの中に、「ニセ科学」の問題について「思想の問題」を重視して考えている人が結構含まれていると見える(全てとは言わんけど)。

 互いに、「ニセ科学」を敵と考えているわけだから、本来ならば車の両輪みたいに協力していけそうなはずなのに、何故対立するんでしょうか?

 「思想の問題」派としては、同じ敵と戦う仲間と思ってた「科学っぽいから」派が、自分の批判対象と同じ「思想の問題」を振り回して自己正当化を図っているの姿を見つけて愕然とするわけだ。

 「科学っぽいから」派の事は見てみないふりをして、『ニセ科学』の「思想の問題」だけを批判する、という選択もあるかもしれないケド、それを潔しとしない人は、袂を分かち「ニセ科学批判批判」に転向しちゃうわけだ。

 「ニセ科学批判」vs「ニセ科学批判批判」なんて
 実は「科学っぽいから」派vs「思想の問題」派の内部分裂にすぎないのかも。

 一方、「科学っぽいから」派はこの状況をどう見ているかと言えば
 「ニセ科学批判批判」者は「ニセ科学」を擁護する仲間だ。だから、「ニセ科学」と同じく取るに足らない”はず”だから、同じような態度を取ってあしらっていればいいさ。

 ...な~んて単純な態度取ったりするから、「思想の問題」派はますます「科学っぽいから」派に幻滅するわけ。


【議論について物申す】

 ちょっとテーマからずれるかもしれないけど、最語に最近思った事。

 よく、「ニセ科学批判者側」は『メタに逃げている』って表現するけど、『メタ』には”昇華”するもんじゃないのかな、って思う。色んな事が見えてなければメタに登れないわけだからさ。

 むしろ、相手の主張そのものはほっぽり出したまま、「彼はきっとこういう感情でいるんだぜ」とか「彼はきっとこういうダメな人間なんだぜ」などと仲間内で楽しそうに話して見せる方が『メタに逃げる』って表現が相応しいと思う。

 一方、『思想の問題』派においては、そういった『主張の裏にある感情・思考・思想』こそがメインテーマであり、メタな話でもなんでもない。
 また、メインテーマだからこそ、その問題を抉り出すために、相手の主張を綿密に検討する。その上で、「どこから、なんでそれが読み取れると言えるか」と「なんでそれが問題なのか」の説明にエネルギーを費やしているはずだ(少なくとも私はね)。
 その辺が「あのブドウはすっぱいに違いない」的な安易な揶揄とは違う。

 次に文句を言うのはきっと『文脈が違う』だ。
 つまり、「細かい部分だけを見て批判するな」と言う事だろう。
 マクロもダメ、ミクロもダメ、じゃぁ、結局のところ何だというと
「自分の見て欲しい事だけを、自分の見て欲しい分だけ見て、言及しろ」
 って事じゃないかな。

 本気でそう思っているなら、確かに議論なんて成立しない。
 つうか、そんなの”議論”と呼びたくない。

「あなたのいう事は分からない。」と言いつつ
「なんで私のいう事が分からないんだ」と文句を言う。
 そして、議論にならない理由は、
「分からない、分からせられない自分」ではなく、
「分からせようとしてくれない、分かってくれない相手」に一方的に押し付ける。

 なんだよ、あたしゃ、あんたのママか!って感じだ。

 目線の高さも位置も違う人とだからこそ”議論”が成立するんでしょ。
 何もかも同じ人とできるのは、互いの褒め合い認め合いといった薄気味悪い”お話会”ぐらいだよぉ。


【さいごに】

 まぁ、色々書いたけど「ニセ科学を批判する」事、自体は悪くないと思うんだよ。
 効果があるかは分からないにしても、効果が無いと分かっているわけじゃないんだし。
 少なくとも、科学に興味の有る人や興味を持ち始めた人の面白いレッスンになるでしょう。

 ただ、「なんとかせねば」の気持ちが高じて、そこに使命感やら正当化やら、後は悪感情やら(『思想の問題』派は、大抵口調からして性悪そうだ)そういうものまでくっつけ始めるとヤバイ。
 その肥大した部分に自分を合わせなければならず、主張にも無理が出る。一方で、肥大したものを「大義名分」として好き勝手やる奴も出てくるけど、それも邪険にはできない。
 そんな色んなものが鬱積すると、何か自分以外のものに頼りたくなる。
 メカAGさんの言う所の「思考停止」だ。

 すがる相手は、認めてくれる仲間かもしれないし、誰かの言葉を「正しいもの」と受け入れる事かもしれない。そうなってくると、ヤバイ。
 一度すがったら、その心地よさからなかなか抜け出せない。
 そうなると揶揄でもなんでもなく「宗教」と同じだ。

 対抗相手に対し、手短にこう言ったりしてないかい?
「まず誰それさんのアレを読んでください」
 そのとき、心の中で、
「誰それさんのアレを読めば必ず私と同じ気持ちになれるはず」
 と思っていやしないだろうか。
 だったらそれは「布教」そのものだ。

 そして、読んだのに自分の気持ちと同じにならなければ
 悪魔か大馬鹿であると、一方的に決め付けてしまわないだろうか。


 人の考えなんて所詮自分の脳の肥やし。
 自分ひとりで、自分の身の丈で、自分の考えを、自分の責任で言う。
 あまりにもあたりまえで、そしてすっごく面白い事なのに、
 それができなくなってしまってはイケナイ。
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メカ

効果のない疑似科学批判というのはホメオパシーみたいなもんだと思うんだよね。効果はないかもしれないけど害もないからいいじゃないか、と考えるか、実は隠れた害があるんだよ、と考えるか。

効果の検証を放棄することの最大の問題は「暴走しやすい」ということ。「もっと努力すれば」とエスカレートする。「丁度いい」というバランスがとれなくなる。まあそういうものは世の中にたくさんある。まさに市民運動に格好の材料を提供している。反戦運動とか環境保護運動とか。これらは「もっと、もっと」と際限がない。

しかしエスカレートさせることの害は明らかにある。反戦運動も度を過ぎれば自国の最小限の防備も出来なくなるし、環境保護も経済の足を引っ張ることになる。疑似科学批判も粋すぎれば事前検閲などの言論統制につながると思うので俺は警鐘を鳴らしている。

突き詰めれば、疑似科学批判グループというんが一つにまとまっているのが問題なのかもしれない。もっと流派ごとに分裂し互いに牽制し合い足を引っ張り合う状態の方が健全といえよう。だからその意味では疑似科学批判と疑似科学批判批判の争いは不毛どころか、健全な状態に近づく過程だとさえ思う。

人間は独善に陥りやすい。その事実を認め、安全装置をあちこちに設置しておくべきだと思う。
by メカ (2009-09-05 06:51) 

トンデモブラウ

なんら具体的な対案もないのに、「効果が実感できない」という個人的経験のみで否定するってのも、かなりホメオパシー信者のようですね。
私はクリスチャンですが、日本人なのでかなり性善説なんだよね。
だから、ネガティブ・キャンペーンの有効性がさっぱり分からん。
警鐘は鳴らすだけなら、オオカミ少年でもできるんですけど。
by トンデモブラウ (2009-09-05 10:52) 

メカ

トンデモブラウさん

対案がなければ文句を言うな、という考え方がそもそも不健全なんだよ。たとえば世界恐慌によって日本は危機に陥った。その状態の日本を何とかするためには戦争が一番積極的な方法だったのだろう。それ以外の対案はイマイチだった。改善することが重要だという意見が大勢を占め、戦争に突き進んだ。苦しい経済状態でも耐えるという選択は退けられた。

人間の思考を扇動するには、明確な方向を指し示し、その方向に進むにはどうすべきかをひたすら考えさせることだ。指し示された方向の正当性を疑わせる余裕など与えないようにね。宗教も同じだ。神の偉大さを考えさせる。神が存在するかは考えさせない。

クリスチャンだそうだけど、ある意味水伝叩きはあなたにとってプラスなんだろうね。ライバルが減るわけだから。キリスト教徒がイスラム教徒が叩かれて喜んでいるのと同じかもしれない。
by メカ (2009-09-05 16:14) 

トンデモブラウ

文句を言うのは勝手です。
ご自由にどうぞ。
誰も相手にしてくれないでしょうけど。

宗教同様、戦争に突き進んだ理由についても、あなたと認識が全く違うんだなぁ・・・
本気ですか?
まぁ、いいや。
でも、水伝は科学でも宗教でもないよ。
ポエムですから。(すると、芸術ではあるのかな?)
by トンデモブラウ (2009-09-06 15:02) 

メカ

トンデモブラウさん

もはやあなたのは主張でもなんでもなくてただワンワンキャンキャンいってるだけになってしまってるよね…。
by メカ (2009-09-06 20:42) 

トンデモブラウ

いや、あなたの宗教観、戦争観が余りに・・・なもので。
度肝を抜かれただけですよ。
あまり知らない事を使って喩えるのはやめた方がいいかと思われます。(←これが今回の主張ですな。)
by トンデモブラウ (2009-09-06 22:49) 

メカ

トンデモブラウさん

いやぁ、これだけ話していて中身のある話が出てこないんだから、よく知らないのはあなたの方なんじゃないかい?クリスチャンを自称してて何もはなせないんだから、これは恥ずかしいと思うよ(苦笑
by メカ (2009-09-07 07:34) 

トンデモブラウ

メカさん
教えてほしいの?
by トンデモブラウ (2009-09-07 08:25) 

メカ

他人の日記のコメント欄でチャットみたいな会話はあまりしたくないんだけどね。俺に言いたいことがあるなら、考えをまとめて書いたらどうなの?
by メカ (2009-09-07 08:39) 

PseuDoctor

こんばんは。

>Judgementさん
あまりエントリ本文に絡んだコメントが無いのも寂しいので、ちょっと私が。
結論から言うと、本文の前半部にはほぼ同意なのですね。殆ど付け加える事が無いくらい。
まあ敢えてまとめるなら、
1.客観的かつ定量的な指標による、効果の評価はあった方が良い。
2.しかし指標の策定及び評価の実施には膨大なリソースが必要。
3.従って直ちに評価を要求する事は現実的では無いが、評価されて無いという事も認識すべき。
てなところでしょうか。

ちなみに(そんな事言う人はまさか居ないと思うが)「効果があると証明されていないから効果は無い筈だ。あるというなら証明しろ」というのは、悪魔の証明を求めていないだけマシとは言え、相手に多大な負担を求めているという点で、筋の悪い主張ですね。
これって一見、ニセ科学批判がニセ科学に対して使っているのと同じ論法にも思えるけれど、実はそうじゃない。理由は大きく分けると2つあって、1つは「既存の知見に立脚しているか、論理的整合性は保たれているか」という観点の有無、そしてもう1つは、主張の強さです。
大体、ニセ科学を批判している人の中で「現状のやり方がベストだと考えている人」なんて居るのかな?少なくとも私が直接遣り取りした事のある人達の殆どは「もっと良いやり方を模索している」と見受けられました。

その意味で、個人的には「反対意見から学ぶ姿勢を忘れたくない」と思っているのですね。別にこれは謙虚ぶってる訳じゃなくて、Judgement流に言えば「反対意見を封殺する事に血道を挙げるよりも、反対意見に含まれている『自分とは異なった視点』をも吸収して昇華させた方が、より上のステージに到達できるんじゃないのん?」て感じです。
ただ、それをやり過ぎると、トンデモさんにありがちな「何でもアリで自分が無い」状態になってしまいます。自分の「芯」を保ったまま柔軟に反対意見を取り入れて行く、Judgementさん的にも、そのあたりに腐心されているんじゃないかと思ったりします(それに、反対意見だといっても、何でも取り入れる価値があるとは限らないし、価値が極端に少ない意見も多いですからね)。

という議論を踏まえると、前にも書いたと思うけれど「ニセ科学批判」と「ニセ科学批判批判」を対立軸で捉えようとするJudgementさんの見方には賛同できません。内部分裂だとも思いません。
元々多様な意見が存在するのは当たり前なのであって、それを指して分裂だの対立だのと言うのはナイーブ過ぎる見方なのではないですか?
ただ「批判批判」という言葉が出てきたのは、あまりにも不毛な議論が多過ぎたからだと理解しています。「他人を貶す事で自分を偉く見せたいだけの人」なんかに延々と付き合わされた日には、嫌気もさしますよ。

だから「自分の意見は不毛な議論なんかじゃない。思想の問題で袂を分かったのだ」と言うのなら、その意見をちゃんと表現すれば良いのですよ。イチャモンにしか見えなければ袋叩きに会うかもしれないけれど、そうでなければ賛同者も出てくるのではないのですか。Judgementさんの場所はまさにそうでしょう。
繰り返しますが、少なくとも私は、そういう状況を対立だとも分裂だとも思いません。
私なんかむしろJudgementさんの意見には反論する事の方が多いけれど、それでもここにお邪魔し続けているのは、自分の中の「異なった視点」を失いたくないからだし、その意味でJudgementさんの意見は大いに参考になるからです。
得る物が無いと思ったらわざわざ反論なんてしないし、そもそも来ませんよ(でも時間は有限なので、見たい場所を全て見られてる訳でもないのが辛いところ)。

でも、
>「ニセ科学批判批判」者は「ニセ科学」を擁護する仲間だ。
これはどうなんですかねぇ。ちょっと本気でビックリしました。
マジでそんな事考えてる人がいるとは信じられなかったので。
まあ、結果的に「邪魔をされている=利敵行為だ」と判断する事はあるかもしれないけれど「仲間」とまでは思わないんじゃないかなぁ。
あ、でも、実際にニセ科学の人が「批判批判」の論法を使って反論してくる事もある訳です。確かにその場合は仲間どころか「同一」ですけど、それはあくまで「批判批判の論法を使うニセ科学」者であって「ニセ科学批判批判」者とは区別すべきですよね。

以下余談です。
>トンデモブラウさん
うーん、新しい一面を見せて貰いました。では不肖私が、謹んでもう一つハンドルを進呈しましょう。
その名も「トンデモブレード」です!
切れ味が鋭いのか鋭くないのか良く解らないところがミソ(笑)
他にも幾つか考えたのですが、完璧オヤジギャグなので殆どボツ。
by PseuDoctor (2009-09-15 23:03) 

メカ

> 「既存の知見に立脚しているか、論理的整合性は保たれているか」という観点の有無、そしてもう1つは、主張の強さです。

これも立場を変えれば全く同じだと思うけどね。神学の体系なんかそれなりに整合性はとれてると思うよ。既存の知見とも。その場合科学の方が既存の体系に反した新参者ということになる。要するにどちらのサイドもその正当性の主張において既得権に依存すれば足下をすくわれる。科学には科学の物差しがあり、科学的視点でそれを評価することは問題ない。

しかしそれを唯一の物差しだと主張し始めると、結局は宗教が行ってきた過ちを繰り返すだけだ。科学は科学では語れないものについて語ってはいけない。それは疑似科学批判についても言えること。それを疑似科学批判者はあれこれ理由をこじつけてなんとか科学の外にも科学の価値観を主張しようとする。疑似科学批判が一定以上は大衆から支持されないのはそういうところに原因があると俺は思うね。それは人々が疑似科学や宗教に感じるのと同じ危険性や胡散臭さを疑似科学批判にも感じ取るからだ。

> 大体、ニセ科学を批判している人の中で「現状のやり方がベストだと考えている人」なんて居るのかな?

ベストな方法が見つからないから、現在の方法を続けるというのは正当化の根拠として弱いんじゃないかな?治療法の見つからない伝染病患者は村ごと焼き払ってしまえみたいな。伝染病なら放置しておくと大変な被害が出ることが明らかだから、それも許されるかもしれない。しかし疑似科学がそこまで切羽詰まった危険をはらんでいるかというと、説得力が十分でない。地球温暖化のためにレジ袋を削減しましょう、今思いつく対策はそれしかないから!みたいなレベルに思えてしまう。マッチポンプというか。

> 少なくとも私が直接遣り取りした事のある人達の殆どは「もっと良いやり方を模索している」と見受けられました。

試行錯誤すること自体はよいことだ。しかしそこから何も学んでいないというのが俺の最初のasksの文章の主旨だ。オウム事件であれほど叩いても疑似科学はなくならなかった。そこから何らかの事柄を学び、アプローチ方法を変えるなどの試行錯誤が必要なのに、現在の疑似科学批判は同じことを繰り返しているだけだ。

疑似科学の場合、すでに決着がついている事柄が10年ぐらいの周期で蒸し返される。それは世代が変わるからだろう。昔話題になったことを知らない世代が、新発見するわけだ。でも疑似科学批判者も同じじゃないのか?と思ったことない?(笑)。個人の経験では限りがある。毎回世代交代のたびに再発見に時間を費やすのは賢いとは言えない。過去の経験の蓄積から学ばなければならない。

もっとも疑似科学雑誌が売り上げを維持するために、ほとぼりが冷めた過去の話題を定期的に蒸し返すように、疑似科学批判もそれによって商売をしている人とか、そこまで行かなくても売名に利用しているとかいう人がいれば、同じことをする理由も納得できるというものだ。

> 「他人を貶す事で自分を偉く見せたいだけの人」なんかに延々と付き合わされた日には、嫌気もさしますよ。

そもそも科学や社会正義を背負って疑似科学を批判する側が、嫌気だとか偉く見せたいとかそういう感情的な考え方をする点に問題があると思うね。アイツは自分を偉く見せたいんだと相手を批判するのは、自分が物事をそういう視点で見ていることに他ならない。たとえ相手の目的が本当にそうであったとしても、そういう点に心乱されることなく、淡々と批判すべき事実だけを批判すればいいことで、それができずに自分の感情を口にしてしまえば、その時点でまさにどっちもどっちだろうね。

つまるところ科学で扱えないものを科学で扱おうとして、結局上手くいかないので、そういう感情的な発言が出てくるわけで、ミイラ取りがミイラそのものになっている。疑似科学批判批判者から科学教だとしばしば呼ばれるのは的を射ていると思うよ。

> これはどうなんですかねぇ。ちょっと本気でビックリしました。
> マジでそんな事考えてる人がいるとは信じられなかったので。

なんかこの言い回し、ホメオパシーにはまっている人たちのブログを読んでいるのかと錯覚してしまったよ。びっくりするとかしないとか、信じられるとかられないとか、そういう感覚的な発言が意外と多いんだよね。疑似科学批判をしている人に。それもこれも科学の枠から飛び出してしまったためだ。もはや科学的スタンスでも論理的スタンスでもなんでもない。


by メカ (2009-09-17 04:45) 

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